第18話 黒き侵入者、目覚める本能 ― 後半 ―
廊下の空気が凍りついた。
月光を背負って立つ影──
顔の半分を包帯で覆い、黒い羽根を一枚胸に飾った男。
“夜叉”。
帝国最深部の影。
そして星華を育て、命じ、最後には殺そうとした師。
星華は静かに前へ出た。
「……夜叉。俺の名を呼ぶな」
「ほう……“星華”と名乗るか。滑稽だな。お前は夜死。帝国が作り上げた最も優れた殺戮者」
「それでも俺は……星華です」
「ふむ。皇女に心でも掴まれたか?」
夜叉の声は嘲笑を含んでいた。
「星華……お前は変わった。以前のお前なら……迷わず皇女の首を刎ねていた」
「…………」
「命令に従い、ためらいなく殺し……感情を持たず……ただの刃であった」
「………………」
「だが今は違う。“守る”だと?“愛する”だと?ふざけた話だ」
星華の瞳がゆっくりと細められる。
「……夜叉。二度と……雫月の名をその口にのせないでください」
「ほう。呼ばれると腹が立つか。いい顔だ。その感情が、どれほど脆くて弱いか……教えてやる」
夜叉が一歩踏み出した瞬間──
空気が歪んだ。
星華は反射的に雫月の部屋のドアノブから手を離し、夜叉と正面から対峙した。
夜叉の足が床を踏む前に──
星華の姿が消える。
風が斬れる音。
瞬間移動に近い速度。
夜叉は目線を動かすことなく、星華の蹴りを片手で止めた。
「……相変わらず速いが──読める」
夜叉の掌が星華の足首を掴む。
そのまま床に叩きつけようとするが──
星華は空中で身体を捻り、壁を蹴って反対側に離脱した。
次の瞬間──
星華の背筋に冷たい汗が走る。
(……今のは……完全に読まれていた……)
夜叉はゆっくりと顔を上げる。
「弱くなったな、夜死。心を持つと……その分“隙”ができる」
「弱くて構わない。雫月を守れるなら、それで」
「言うようになったじゃないか。笑わせる」
夜叉が指を鳴らす。
その瞬間、廊下の影が揺れ、別の刺客が二名、すっと姿を現した。
「皇女を捕らえろ」
「させるかッ!!」
星華の動きは閃光だった。
星華は床を蹴り──
刺客の懐へ瞬時に飛び込む。
敵の短刀が喉を狙うが、星華はあえてその刃先すれすれに身体を寄せ、
刃を“触れさせずに流す”。
そのまま肘を突き上げる。
「ぐっ──!」
二人目が背後へ回る。
星華は振り返らない。
代わりに、床に落ちていた敵の短刀を足先で蹴り上げ──
空中で掴み、そのまま敵の足元へ向け投げた。
刃は地面すれすれで敵の足首に触れた瞬間、回転しながら短刀を叩き落とし、動きを止める。
「な……っ!?」
星華は迷いなく喉元に手刀を打ち込み──
気絶させた。
刺客二人を一瞬で無力化した星華。
しかし背後からゆっくりと拍手が聞こえた。
「やはり……お前は最高傑作だ」
冷たい声。
次の瞬間──
星華の視界から夜叉の姿が消えた。
(……っ!!)
本能が叫ぶ。
星華は振り返るより早く、腕を上げて防御に移った。
ガッッ──!!
夜叉の掌底が星華の前腕にぶつかり、火花のような痛みが走る。
夜叉は低く呟く。
「昔よりは……耐えられるようになったな」
「…………」
「だが夜死。今回の目的はお前ではない」
夜叉の視線が、ゆっくりと雫月の部屋の扉へ向いた。
「皇女が欲しい」
「……ッ」
星華の視界が赤く瞬いた。
「触るな。絶対に」
「触るさ。お前がそれほど守る女なら……帝国にとって価値がある」
「黙れ」
「夜死。お前の感情など……俺が消してやる」
夜叉が地を蹴った瞬間、床の影が波打った。
その時。
雫月は微かな音で目を覚ました。
(……なんだろ……星華……?)
ぼんやりとした頭で、雫月はベッドから起き上がる。
廊下から聞こえる、重い衝撃音。
人の気配。
息の乱れ。
(もしかして……星華……?)
心臓が跳ねる。
「星華……!」
雫月は扉へ駆け寄ろうとした。
しかし──
その瞬間、扉の向こうから星華の怒鳴り声が響いた。
「雫月!!来るな!!」
「っ……!」
雫月は扉の前で立ち尽くした。
星華が叫ぶ声を聞いたのは初めてだった。
その声は、恐怖ではなく“必死の守り”だった。
星華は夜叉の腕を受け止めながら叫んだ。
「雫月、絶対に扉を開けるな!」
「聞けないな」
夜叉の手が扉の方向へ伸びる。
その瞬間──
星華の身体が火花を散らすように動いた。
「触るなあああああ!!」
星華は夜叉の腕を掴み、床に叩きつける。
夜叉は衝撃を殺しながらくぐもった声を上げた。
「……雫月を……奪わせない……!」
星華の声は叫びではなく、魂そのものだった。
夜叉はゆっくりと立ち上がり、包帯の下から皮肉を含んだ笑みを浮かべた。
「……夜死。お前、あの女を……本気で守るつもりか?」
「当たり前です」
「ならば──その弱さで、俺に勝てると思うな」
夜叉が両腕を広げる。
影が、広がった。
まるで生き物のように、廊下一帯に黒い影が這う。
星華は即座に構えた。
「来い」
「喜んで」
二人の間の空気が裂けた。
扉の前で震える雫月は、星華の叫び声と衝撃音に胸を抉られていた。
(星華……一人で戦ってる……)
手が震える。
息が苦しい。
(怖い……でも……私は……逃げない)
雫月は袖を握りしめ、小さく呟いた。
「星華……私も、あなたを守る……」
扉に手を伸ばしかけたその瞬間──
外から星華の声。
「雫月!!絶対に開けるな!!お願いだ……!」
その声は、泣き出しそうなほど必死だった。
雫月は扉に手を当て、震える声で答えた。
「……星華……絶対に……戻ってきて……」
星華の戦いは続いている。
守るために。
自分の心を失わないために。
そして雫月の笑顔を守るために。
(絶対に勝つ……雫月を守るためなら……俺は……いくらでも……)
星華の瞳は、炎のように赤く燃え上がった。




