第18話 黒き侵入者、目覚める本能 ― 前半 ―
その夜。
王宮は晴れ渡った空の下に静まり返り、月は鋭く、細い刃のように空を切っていた。
雫月の部屋の前にはいつもより多くの騎士が立ち、廊下は張りつめた空気に包まれている。
その中で星華だけが、いつもと変わらぬ柔らかな表情で雫月の部屋の前に立っていた。
しかし──
その瞳の奥は、光を帯びた獣のようだった。
(……来る……この静けさは……嘘だ)
星華は壁越しに空気の流れを読み、わずかな“乱れ”を察知していた。
呼吸を潜める影。
金属の摩擦音。
人の“殺意”だけが持つ、冷たい圧。
それは確かに近づいていた。
一方、雫月はベッドの上で星華のことを考えていた。
(星華……今日はずっと不安そうだった……)
胸の奥で何かがざわつく。
(影って……誰……?星華を狙ってる者……私も……?)
考えれば考えるほど、胸の奥に重い石が沈んでいくようだった。
「……星華……」
雫月は毛布を握りしめた。
そのとき、部屋の扉がノックされた。
「雫月。入ります」
「星華……!」
扉が開き、星華が入ってくる。
その顔を見るだけで胸が軽くなる。
「どうしました?眠れないのですか?」
「なんか……怖くて……」
星華はベッドに近づき、雫月の頬にそっと触れた。
「怖がらないでください。ここは安全です。俺が守っています」
「……星華」
雫月は素直に星華へ手を伸ばし、その手を握った。
「離れないで……?」
「離れません」
星華は雫月の額に手を置き、安心させるようにそっと撫でた。
「眠るまでそばにいます」
「……うん……」
星華の声は、どんな恐怖よりも強い薬だった。
雫月が安心して目を閉じて数分。
星華は彼女の寝顔を見つめながらそっと椅子に腰を下ろした。
(……いつ来る……?)
耳を澄ませる。
遠くで、風がひゅうと唸る音。
護衛の重い鎧が揺れる音。
木の軋む音。
そして──
ひっ……と、かすかな音。
(今だ)
星華は椅子から音もなく立ち上がった。
まるで風と同化するような静かな動き。
かつての暗殺者の本能が、完全に目覚める。
部屋の窓の外──
月明かりの下に、黒い影が張り付いていた。
四つの影。
覆面をし、黒羽の刺繍を刻んだ外套。
(黒羽……やはり来たか)
星華は雫月の寝顔を一度だけ見つめ、その姿が乱れないよう毛布を整えた。
「雫月……少しだけ、待っていてください」
星華は誰にも聞こえないほどの小さな声で呟いた。
突如、窓の外からかすかな金属音が響いた。
忍び込む合図。
星華は剣ではなく、己の素手を選んだ。
(騒ぎを大きくするわけにはいかない)
ひゅっ──
窓がわずかに開く。
その隙間に影が滑り込もうとした瞬間──
「遅い」
星華は、影が床に触れるより早く敵の腕を掴み、ねじり、引きずり出した。
「っ……な──」
声を上げるより早く、星華の掌底が覆面の下顎に入る。
影の男は音もなく崩れ落ちた。
しかし──
まだ三人。
「皇女を渡せ」
「星華……いや、“夜死”……!」
星華の眉がわずかに動く。
(俺の……旧称か)
星華は静かに息を吐いた。
「俺の名前は……星華だ」
「知ったことか! 任務は皇女とお前の始末──!」
敵の言葉は最後まで響かなかった。
星華の体がふっと揺れたかと思うと、次の瞬間には敵の背後に回り込んでいた。
暗殺術。
帝国が恐れた天才の動き。
男の膝裏へ一撃。
続けて首の付け根に軽い打撃。
倒れる。
悲鳴もない。
残り二人は怯えたように後ずさった。
「は、速すぎ……!」
「これが……“帝国最凶の影”……!」
星華の声は低く、氷のようだった。
「……二度と雫月に近づくな」
「ひっ……!」
敵が剣を抜いた瞬間、星華は床を蹴って飛んだ。
月光に照らされる影の中、星華の目は鋭く光っていた。
一方、部屋の奥で眠る雫月は星華の離れた温度を感じ取ったのか小さく身じろぎをした。
「……せい……か……?」
名を呼ぶ声は、ほんの小さな夢の中の声。
星華は振り向きたかった。
すぐに駆け寄りたかった。
だが──
それよりも優先すべき“守るべきもの”がある。
(ごめん……雫月)
(今は……影を払いのける)
敵が再び襲いかかる。
刃が月光を反射した瞬間、星華はかすかな呼吸だけで敵の動きを読み切った。
(左から二歩、右の敵が追随して斬り上げ──)
星華の身体は、思考より先に動いていた。
敵の斬撃を腕で受け流し、反動を利用して顎へ回し蹴り。
もう一人は背後へ回り込むが──
「甘い」
星華は一歩も動かず、背中越しに肘打ち。
敵は膝から崩れ落ちる。
(これで……四人目)
静まり返った廊下に、星華の静かな息だけが響く
星華は敵の脈を軽く確かめた。
殺してはいない。
意識を奪っただけだ。
(……殺すよりも、雫月が望むのは“平和”だ)
星華はそのまま一歩、二歩と雫月の部屋へ戻ろうとする。
(雫月……待っていてくれ)
その胸には、雫月の名前しかなかった。
ドアに手をかけたその瞬間。
風を切る音が背後から響いた。
星華は反射的に振り返る。
(……!)
そこには、
二つの影。
月光を遮るような黒い気配。
「夜死……久しいな」
「……夜叉」
顔半分に包帯を巻いた男が立っていた。
星華の胸が冷えていく。
帝国最悪の刺客。
星華の師であり、処刑人でもある男。
そして──
雫月を狙う最大の影。
その口元がゆっくりと歪む。
「今回は……皇女の方を、連れていく」
星華の瞳が燃え上がる。
「……させるか」
その声は、低く静かで、狂気すら感じさせるほどの覚悟を宿していた。




