第17話 静かなる波紋、動き始めた影 ― 前半 ―
夕暮れの庭で──
雫月と星華は互いの気持ちをようやく確かめ合った。
恋と呼べるほど強く、素直で、温かい感情。
その夜、雫月は深く眠り、星華も久しぶりに守るべき存在を胸に抱き、穏やかな眠りについた。
しかし。
王宮の外では、静かに、だが確実にもう一つの影が動き始めていた。
闇で覆われた帝国の城。
黒曜石で造られた壁は、月明かりを吸い込むように光を放たない。
その深部にある、影の会議室。
フードをかぶった複数の人物が巨大な円卓を囲んでいた。
「……“星華”がまだ生きているという報告、本当なのか?」
低く響く声に、別の人物が答えた。
「はい。奴は皇女・雫月の執事として生き延びているとのこと」
「記憶喪失と聞いたが……?」
「記憶の大部分を失っているのか、演じているのか……
それは定かではありません。ただ一点──」
「ただ一点?」
「皇女を“守っている”。以前とは異なる行動を取っています」
円卓にざわめきが走った。
「星華は、帝国最強の暗殺術を継ぐ者。記憶が戻れば……皇女は即座に殺されるはずだ」
「だが、殺していない。むしろ……守っている」
「……裏切りか」
部屋の空気が冷え込む。
すると、奥の席に座る影が静かに口を開いた。
「“夜叉”はまだ動けないのか?」
「顔に深手を負い、完全復帰には時間が必要です」
「なら──別の者を送るしかあるまい」
ざわり、と影たちが動いた。
「皇女を攫え。そして……星華を始末する」
一方その頃。
王宮の回廊を月光が照らす中、星華は一人、静かに歩いていた。
先ほどまで雫月の部屋の前で警備に立ち、彼女が眠りについたのを確認してからの巡回だ。
(……胸がざわつく)
星華は足を止め、夜の空気を深く吸い込んだ。
風は冷たく、しかしその中に“鉄の匂い”が混ざっている。
(……誰かが……動いている……)
暗殺者として育った星華には、人の“殺気”や“意図”が風の中の微細な変化として感じ取れる。
それが、今まさに王宮に向かって波のように近づいていた。
「……雫月に……何か……」
胸の奥に、焼けるような痛みが走る。
(守らないと…絶対に)
星華の決意は鋼鉄のように固まった。
翌朝。
雫月はいつものように起き上がり、軽く伸びをしてから星華を呼んだ。
「星華ー……?」
扉が静かに開き、朝日を受けた星華が現れた。
「おはようございます、雫月」
「……っ」
名前で呼ばれた瞬間、雫月の心は前日の夕暮れを思い出し、胸が暖かくなる。
「星華……今日も名前で呼んでくれるの……?」
「望まれるなら、いくらでも」
「……嬉しい」
雫月は微笑み、いつもよりすぐ星華のそばへ寄った。
しかし。
(……星華……なんか……顔が少し暗い……?)
雫月は星華の表情が少し緊張していることに気づいた。
「星華……?何かあった?」
「いえ。雫月が無事なら……それで十分です」
「……でも」
星華はふっと息を吐き、雫月の頬に触れた。
「守りたいものが増えたんです。だから……少しだけ、慎重になるだけです」
「……っ」
その“守りたいもの”が自分であることを雫月は理解し、胸が締めつけられる。
「星華……私もね……星華が無事じゃないと……嫌だよ」
星華の瞳が揺れた。
(……雫月……本当に……大切で……)
危ういほど愛しくなる。
食堂へ向かう途中、騎士団長のヴァルドが近づいてきた。
「星華殿、皇女殿下。おはようございます」
「おはよう、ヴァルド」
「おはようございます。何か……ありましたか?」
ヴァルドはわずかに眉を寄せた。
「城の北門付近に、不審人物が二度確認されました。皇女殿下には警備を強化します」
「不審人物……?」
雫月の胸がざわつく。
星華はすぐに雫月の前へ立ち、視線を鋭くした。
「特徴は?」
「黒いマント、覆面。身のこなしが異常に軽いとの報告。刺客の可能性も……」
雫月の顔から血の気が引いた。
(刺客……また……?)
星華は強く拳を握った。
「雫月には指一本触れさせません」
その声音は、静かに燃える炎のようだった。
「……星華……?」
雫月は星華の横顔に見とれながら、胸が痛くなるほどに強く鼓動した。
(星華……守ってくれてる……)
星華の決意の強さは、雫月が思っていた以上に深く、重かった。
「雫月。今日の予定は……」
「星華、さっきの人……怖かった?」
星華は一瞬だけ目を伏せ、すぐに優しく笑った。
「大丈夫です。刺客が来るとしても、あなたのそばで俺が守ります」
「……ほんと?」
「はい。雫月には怖い思いをしてほしくない」
雫月は星華の手をそっと握った。
「星華……怖いなら……言っていいから」
「……雫月」
星華は雫月の手をぎゅっと握り返す。
(大丈夫と言ったのは……雫月を安心させるため……本当は……)
本当は、星華の胸にも恐怖はある。
“もし守れなかったら”という恐怖。
“また奪われる夢”を見る恐怖。
でも。
(雫月にだけは、怖がった顔を見せたくない)
星華は自分の心にそう言い聞かせ、雫月の頭を優しく撫でた。
「雫月は、俺が守ります」
「……うん」
雫月は星華の胸に一瞬額を寄せ、安心したように微笑んだ。
だが、星華の胸には確かに何かが迫る気配があった。
(影は……近い)
それは確信だった。
朝食を終え、雫月と星華は廊下を並んで歩いた。
雫月は心配を隠すように微笑み、星華の袖を少しつまんだ。
「星華……」
「はい」
「今日も……名前呼んで?」
星華の瞳がとろんと柔らかくなる。
「……雫月」
「……っ」
名前を呼ばれるだけで、胸が甘くなる。
(星華……こんな状況なのに……どうしてこんなに優しいの……)
雫月は星華の体温を確かめるように、そっと腕に触れた。
「星華……何があっても……離れないよ」
星華は歩みを止め、雫月を見つめた。
「……雫月。その言葉が……どれだけ俺を救うか……あなたは分かっていない」
「分かってるよ。だって私……星華が好き」
星華の目が一瞬揺れ、すぐに柔らかい熱を帯びた。
「……雫月」
その名前を呼ぶ声は、恋そのものだった。
ふたりが廊下の角を曲がった瞬間、外の窓からひゅう、と強い風が吹き抜けた。
星華が微かに反応する。
(……この感じ……やはり誰かが来ている)
雫月を守る腕に自然とはりつめた力が宿る。
「星華……?」
「大丈夫です。ただ──」
星華は雫月の手を取った。
「少し……離れたくない」
雫月は迷わず手を握り返した。
「離れないよ。ずっと隣にいる」
その瞬間、星華の胸の痛みは静かに鎮まる。
(どんな影が来ようと……雫月は絶対に守る)
風が再び吹き抜ける。
その風の向こうで──
確かに“影”が近づいていた。




