第16話 陽だまりの庭で、あなたの隣を選ぶ理由 ― 後半 ―
午後の陽射しが少し傾きはじめ、庭の空気がほんのり金色に染まり始めていた。
雫月は星華の肩に寄りかかったまま、その暖かさに身を委ねていた。
「星華……この時間……すごく好き」
「俺もです。雫月様が落ち着いていると、安心します」
「ふふ……星華って、ほんとお母さんみたい」
「お母さん……?」
「安心するって意味!」
「……そういうことでしたか」
星華がやんわりと目を細め、雫月の髪の毛をそっと整える。
(星華の指……優しい……)
一瞬で胸に温かさが満ちた。
鳥が木陰へ戻る頃、庭は昼よりも静かになり、風の音とふたりの呼吸だけが響いていた。
「星華……」
「はい、雫月様」
「“雫月様”じゃなくて……たまには……名前で呼んで……?」
「……名前で、ですか?」
「うん。星華、私の名前……好きでしょ?」
星華は胸の奥がひときわ強く脈打つのを感じた。
「……好きです。誰よりも、綺麗な名前です」
「っ……!」
言葉があまりに真っ直ぐで、雫月は息を呑んだ。
「だから……呼んでほしいの。“雫月”って」
星華は、少しだけ迷った。
その一言で、何かが変わってしまう気がして。
でも。
雫月が期待するように目を見つめている。
(……もう、抗えない)
星華はゆっくりと呼んだ。
「……雫月」
その声音は、甘すぎて胸が苦しくなるほどだった。
「っ……!」
雫月は顔を手で隠した。
「ちょ……星華……なんでそんな……優しく言うの……」
「優しくしないように……できますか?」
「……できないでしょ……?」
「はい。雫月に対しては、できません」
“様”を取った名前呼びが、これほど破壊力のあるものだとは思わなかった。
(星華……意識してないだけで……絶対わかってない……)
星華はいつものように雫月のカップに紅茶を注いだ。
その動作ひとつひとつが丁寧で、優しくて、温かい。
雫月は胸の奥に沸き上がる感情を抑えられなくなっていた。
(私……星華のこういうところ……全部……好き……)
星華が髪に触れたとき。
手を握ってくれたとき。
守ってくれた夜。
嫉妬した声音。
名前で呼んでくれた優しい響き。
すべてが胸に積み重なり、雫月はようやく気づいてしまった。
(これ……恋なんだ……星華に……恋してる……)
気づいた瞬間、心臓がうるさくて仕方ない。
紅茶を飲み終えると、星華が雫月に薄いショールを肩にかけた。
「風が冷たくなってきました。寒くありませんか?」
「……ないよ。星華が隣にいるから」
「それでも……冷えてしまったら困ります」
星華は少し考えるように目を伏せた。
「雫月が……寒い思いをするのは、嫌です」
雫月は思わず星華を見つめた。
「星華……?」
「俺は……雫月が苦しむ顔を見たくありません。怖い思いをした夜も……あれから何度も夢に見ます」
「……」
「声が届かなくなるのが……いちばん怖い」
雫月は胸がぎゅっと痛んだ。
「星華……私ね」
「はい」
「絶対……もうどこにも行かないよ。星華の声、ちゃんと届くから」
「……約束、ですか?」
「うん。約束」
星華はその言葉を確かめるように雫月の手を握った。
「ありがとう……雫月」
“雫月”と名前で呼ばれたことで、胸が跳ねて止まらない。
庭の奥から、城の騎士たちが姿を見せ始めた。
遠くから雫月を見守っているが、星華は一瞬そちらを見て、また雫月に視線を戻した。
「人が増えてきました……戻りましょうか?」
「ううん……」
雫月は星華の袖をつまんだ。
「もう少しだけ……星華といたい」
星華はその一言に抗えなかった。
「……はい。もう少しだけ」
雫月は椅子から立ち上がり、星華の手を引いて庭の奥へ歩き出した。
人目の少ない場所まで来ると、星華がそっと尋ねる。
「ここが……よろしいのですか?」
「うん……」
雫月は星華に向き直り、少し恥ずかしそうに言った。
「星華……手、出して」
「……はい」
星華が少し戸惑いながら手を出すと、雫月はその手を両手で包んだ。
「星華の手……あったかいね……」
「雫月の方が温かいです」
「どっちでもいいけど……星華の手……好き」
「……!」
星華の表情が揺れた。
(雫月……そんな……)
雫月は続ける。
「星華に触れると……落ち着くし……嬉しいし……胸がぎゅってなるの……」
「雫月……」
星華の声が震える。
「それ……恋だと思う……」
星華の呼吸が止まった。
風が止まり、陽射しがゆっくりと落ちていく中で、雫月は胸に手を当てた。
「気づいたの……星華に……恋してるって」
「……っ」
星華の目がゆっくりと見開かれた。
「星華……あなたが好き」
言葉が、夕暮れに溶けていく。
星華は何かを言おうと口を開いたが――胸があまりに熱くて、言葉にならない。
「……雫月……俺は……」
雫月はそっと星華の胸に顔を寄せた。
「言わなくていいよ。星華が私に優しいの……知ってるから」
星華の腕が、静かに雫月を抱き寄せた。
「……雫月。あなたを……誰よりも大切に思っています」
「……うん」
「俺の心は……もう、とっくに……雫月に奪われています」
雫月はその言葉に涙をにじませた。
「星華……ずっと隣にいてね」
「もちろんです。あなたが望む限り……永遠に」
夕日がふたりを優しく包んだ。
束の間の平和。
そして確かな恋のはじまり。
その時間は、ふたりにとって何より大切な宝物になっていった。




