第1話 星の名を持つ少年 ― 後半 ―
星華が雫月の正式な“執事見習い”となってから、さらに一週間が経った。
まだ体は万全とは言えないが、短い距離なら歩けるようになっていた。
王宮の中庭では、雫月と星華がゆっくりと並んで歩いていた。
春の光が差しこみ、噴水の水音が心地よく響く。
「星華、歩ける? 無理そうだったら言ってね」
「大丈夫です。雫月様のおかげで……だいぶ楽になりました」
「えへへ……そう言ってくれると嬉しいわ」
雫月はスキップしそうなほどご機嫌だった。
星華はその背中を目で追いながら、ふと胸の奥が温かくなるのを感じる。
(この場所は……不思議だ。どこか懐かしいようで……)
だが、記憶には何ひとつ映ってこない。
脳裏には、暗闇と血の匂いだけがこびりついていた。
「星華……?」
突然立ち止まった星華に、雫月が心配そうに振り返る。
「あ……すみません。少し、昔のことを思い出そうとしてしまって」
「無理しないで。思い出さなくてもいいのよ?」
雫月は星華の手をそっと握る。
その指先の温度が、星華に“今ここにいる”という実感を与えてくれた。
「……はい」
星華はほんの少し俯きながら微笑む。
「雫月様のお言葉……いつも、救われます」
「星華が笑ってくれるのが、私の嬉しいことよ」
雫月はそう言うと、噴水のそばにあるベンチに腰掛けた。
星華も隣に座る。
中庭を吹き抜ける風が、雫月の長い髪を揺らした。
「星華、ねぇ……ひとつ聞きたいことがあるんだけど」
「なんでしょう?」
「星華は……怖くないの?」
「怖い……とは?」
「だって、あなたは記憶がないのに、私のそばにいる。知らない場所で、知らない人に囲まれて……不安じゃない?」
雫月の声は、どこか弱く、小さく震えていた。
星華はその意外な表情に、静かに首を振った。
「雫月様。俺は……あなたに拾われた時、初めて“生きていていい”と思えた気がするんです」
雫月が目を見開く。
「だから、不安ではありません。ここにいることが……俺の居場所のように思えるんです」
星華の声音は低く穏やかで、雫月の胸に優しく触れるようだった。
「……そっか。よかった」
雫月は安堵の息をつき、胸に手を当てた。
「ねぇ、星華。これからも……私のそばにいてくれる?」
「はい。雫月様が望む限り」
「望むに決まってるじゃない!」
雫月は嬉しさを隠せず笑った。
その笑顔は、星華の胸の奥をぎゅっとつかむ。
(どうして……こんなに、心が……)
言葉にできない感情が、少しずつ溢れ始めていた。
午後。雫月は父である国王の執務室に呼ばれた。
星華は廊下の外で待機している。
重い扉の向こうから国王の落ち着いた声が響いた。
「雫月。倒れていた少年……“星華”と言ったか。あの者の身元は、まだ掴めんのか?」
「はい……全然。でも、きっと悪い子じゃないわ」
「雫月。お前は優しい。だからこそ心配なのだ」
国王は娘の前に膝をつき、真剣な目を向ける。
「星華は記憶を失っている。だが、もし彼が敵国の者であったら……お前を狙って近づいた者であったら……?」
「そんなことない!」
雫月は反射的に叫んでいた。
国王は驚かず、ただ静かに続ける。
「お前が彼を信じたい気持ちは理解している。だが、王族である以上、危険には敏感であれ」
「……でも……」
「気をつけるのだ、雫月。星華がどんな子であっても、お前の身が第一だ」
雫月はうつむき、小さく答えた。
「……はい」
その返事には、どこか悔しさが滲んでいた。
一方廊下の外で待っていた星華は、ぼんやりと壁の彫刻を眺めていた。
すると、ひとりの兵士が近づいてきて、無遠慮に声をかける。
「おい、そこの少年。少し話を聞かせてもらおうか」
「……俺、ですか?」
「他に誰がいるんだ?」
兵士は星華の肩を掴み、強引に人気のない曲がり角へと引っ張っていく。
「痛っ……!」
「お前、どこから来た? 何者だ?」
兵士の視線は疑念に満ちている。
「何者……それが、分からないんです」
「ふざけるな。記憶喪失だと? 王宮の周りで倒れてた奴が、都合よく記憶がねぇ? 怪しすぎるだろう」
「嘘じゃありません。俺は本当に……」
「……“刺客”じゃないだろうな?」
その言葉に、星華の心臓が一瞬止まりかけた。
(刺客……?)
胸の奥でざらりとした痛みが走る。
黒い刃、叫び声、燃えるような感覚――
断片的なイメージが一瞬よぎり、頭が割れそうになった。
「うっ……!」
「おい、どうした?」
兵士が戸惑うより早く、星華は膝をついて頭を抱えた。
(なんだ……これ……俺は……)
その時。
「星華!」
雫月が駆け寄ってきた。
兵士の手が星華の肩を掴んでいるのを見て、表情が一変する。
「ちょっと! 星華に何をしてるの!」
「で、殿下……! これは、その……」
「離しなさい!」
雫月の鋭い命令に、兵士は慌てて星華から手を放す。
雫月はすぐに星華のそばに跪き、背中を支えた。
「大丈夫? 星華、苦しいの?」
「……すみません……少し、頭が……」
星華は震える手で額を押さえた。
雫月は兵士を睨みつける。
「星華は私が助けた子よ。疑うなら私を疑いなさい!」
「い、いえ……殿下、それは……!」
「これ以上、星華に触れたら許さないわ」
雫月の声は幼いながらも、威厳と怒りを帯びていた。
兵士は青ざめ、深く頭を下げた。
「し、失礼しました……!」
雫月は星華の肩を抱いて、そっと自分の部屋へと連れていく。
部屋に戻ると、雫月は星華にお茶を出しながら言った。
「ごめんね、星華。怖かったでしょう?」
「……いいえ。ただ……自分が何者なのか、分からないのが……怖いんです」
星華は震える指先を見つめた。
「俺は……本当は……雫月様に近づいちゃいけない……そんな気がして……」
「そんなこと……!」
雫月は星華の手をぎゅっと掴んだ。
「星華は星華よ。誰が何と言っても、私があなたを信じるわ」
星華はその目を見た。
揺るぎない信頼。疑いの欠片すらない純粋な想い。
「雫月様……」
「ねぇ、怖くなった時は言って? 逃げたくなった時も、泣きたくなった時も……全部、言っていいのよ」
雫月の声は、星華の凍った心に触れるようだった。
「……言ったら……嫌われませんか?」
「嫌うわけないでしょ!」
雫月は少しむくれながら言う。
「私は星華が好きよ。好きっていうのは、“一緒にいてほしい”ってことよ」
星華の胸に熱が広がり、目を伏せた。
「……俺も……雫月様のそばにいたいです」
その言葉を聞いた瞬間、雫月の頬がぱぁっと赤くなる。
「じゃあ、決まりね!」
雫月は星華の手を取り、額にそっと触れさせた。
「私が星華を守るから。これからは、私のそばで笑って」
星華は驚きながらも、小さく頷いた。
「……はい。雫月様」
その瞬間、二人の距離はわずかに縮まり、星華の胸の奥で“運命”が静かに軋む音がした。
(この人を守りたい――)
理由も分からず、ただ強くそう思った。
雫月は星華に微笑み、そっとその手を握り続ける。
――こうして、星華の“執事としての第一歩”が始まった。
まだ幼い二人。
けれど、その絆はすでに、何より強い光を帯び始めていた。




