第13話 穏やかな朝、ふたりだけの紅茶 ― 後半 ―
クッキーづくりを終えたふたりは、窓辺に設けられた小さなティーテーブルに並んで座っていた。
優しい風がカーテンを揺らし、午後の光が雫月の髪に溶けるように降り注いでいる。
星華は雫月の指先についた粉砂糖を見つけ、そっとハンカチで拭った。
「……よくつきますね」
「う……たしかに、ちょっとやりすぎちゃったかも……」
「いえ。楽しそうに作っている雫月様を見るのは……
とても幸せでした」
「っ……幸せ……?」
雫月の声が震える。
「はい。あなたが笑っていると……俺まで笑ってしまいます」
その一言は、どんな甘いものよりも胸に染みた。
「……ねぇ星華」
「はい」
「星華って……昔から、誰かのために何かしてたの……?」
星華は一瞬だけ目を伏せる。
「……どうでしょう。昔の俺は……心が空っぽでしたから」
「空っぽ……?」
「命じられたことだけをこなして……喜びも、悲しみも……何も感じていませんでした」
雫月は胸の奥がきゅっと痛む。
(そんな世界で……一人で……どれだけ寂しかったんだろう……)
雫月はそっと星華の手に自分の手を重ねた。
「星華。今は……どう?」
星華はゆっくりと雫月を見つめる。
「今は……」
優しい音を奏でるような声だった。
「雫月様の笑顔を見るたびに、胸の奥が暖かくなります。守りたいと思うんです。あなたの“日常”を」
「……日常……」
「はい。あなたと笑って、ご飯を食べて……歩いて……そんな普通のことが……今の俺には、誰よりも大切なものです」
雫月は目頭が熱くなる。
「星華……それって……もう……」
“好き”と言わなくても分かる。
星華の心には確かに、雫月だけに向けられた想いが宿っている。
「少し疲れましたか?」
「あ……うん。ちょっとだけ……」
「では、こちらへ」
星華は窓際のソファに雫月を座らせ、ひざ掛けをかけてあげた。
その動作ひとつひとつが、雫月にはたまらなく優しく感じられる。
「星華も……隣、来て?」
「……はい」
星華は少し躊躇いながらも、雫月のすぐ隣に腰を下ろした。
距離は肩が触れそうなほど近い。
「もっと……こっち」
雫月は、そっと星華の袖を引いた。
星華は柔らかく微笑み、雫月の肩に自分の肩を寄せる。
「あ……あったかい……」
「そうですか?」
「うん。星華の体温……落ち着く」
星華の胸が熱くなる。
(……そんなことを言われたら……抱きしめたくなるじゃないか……)
けれど星華はその衝動を抑え、代わりに雫月の手をそっと取った。
「少し手が冷たいですね」
「星華があったかいから、余計に……」
星華は雫月の背に手を添え、彼女が寄りかかりやすいように身体を向ける。
「……ねぇ星華」
「はい」
「この三日間……ずっと私のそばにいてくれたの?」
「もちろんです。離れるなど……考えられません」
「……ありがとう」
雫月は星華の胸に軽く頭を預けた。
「星華……」
「はい」
「怖かった時……ずっと星華の声が聞きたかった。あの夜……星華の名前、ずっと呼んでたの」
星華は手を止め、驚いたように雫月を見る。
「雫月様……本当に……?」
「うん……。星華の声が聴こえた時……なんか、すごく……安心して……」
星華は雫月の髪を優しく撫でる。
「……雫月様。俺も……あなたの声がないと……不安でたまりません」
「星華……」
「もし……また声が届かない場所に行かれたら……俺は……きっと……」
「行かないよ……」
雫月は星華の胸をぎゅっと掴んだ。
「行かない。星華を置いていったり、星華から離れたりなんて……しないから」
「……雫月様……」
星華はそっと雫月を抱きしめた。
あの救出の夜のように強くはなく、柔らかく、包むように。
雫月はその腕の中で、静かに目を閉じた。
(星華の腕……本当に……安心できる……)
太陽が沈みかけた頃、雫月はそっと星華の手を握り直した。
「ねぇ星華」
「はい」
「今日は……私の我儘、全部聞いてくれてありがとう」
「我儘ではありません。俺にとっては……全部が幸せな時間です」
雫月は心臓が跳ねるのを感じる。
「……じゃあ、最後にもう一つだけいい?」
「もちろんです」
雫月は、少しだけ恥ずかしそうに口を開いた。
「星華……“おやすみ”の前に……私を……抱きしめて?」
星華の心臓が止まりかけた。
「……よろしいのですか?」
「星華なら……大丈夫」
星華はそっと腕を広げ、雫月を包み込むように抱き寄せた。
雫月はその胸に顔を埋め、小さく囁いた。
「星華……だいすき……」
星華の身体が一瞬震える。
(雫月様……今、それを言われたら……)
でも、星華はぎゅっと抱きしめ返し、耳元で静かに答えた。
「……雫月様。その言葉を……いつか俺に“言い直す”ときが来たら……」
雫月は顔を上げる。
「言い直す……?」
「覚悟していてください。俺も……すべてを伝えます」
「……!」
雫月の胸が熱くなる。
抱きしめ合う時間が、静かに夜へと溶けていった。




