第13話 穏やかな朝、ふたりだけの紅茶 ― 前半 ―
王宮に再び静けさが戻ったのは、雫月が攫われてから三日後のことだった。
城の警備は厳重になり、騎士たちは昼夜を問わず見回りを強化し、“夜叉”の影はこの数日一度も現れていない。
それでも星華は、雫月のそばを離れなかった。
朝日が柔らかく差し込む雫月の私室。
その空気は、戦いや緊張とは無縁の――優しい空気に満ちていた。
ベッドの傍らで控える星華が、ゆっくりとトレイを持ち上げた。
「雫月様。朝食をお持ちしました」
「……ん……」
雫月はぼんやりした表情で身体を起こす。
寝起きの雫月は、星華にしか見せない特別な顔だった。
ふわふわの髪、眠気で潤んだ瞳、まだ夢の中にいるような柔らかい声。
「星華……おはよう……」
「おはようございます、雫月様」
星華は微笑み、その寝癖のついた髪をそっと直した。
「……なでた?」
「はい。寝癖が……可愛かったので、つい」
「か、可愛い……って……!朝からずるい……!」
雫月は枕を抱えて赤くなる。
星華はその反応にほのかな幸福を感じ、いつものようにカーテンを開けた。
朝の光が部屋を満たし、雫月が目を細める。
「今日も晴れてる……星華と散歩できるね」
「もちろんです。雫月様の望みは何でも」
「なんでも……?」
「はい。なんなりと」
雫月はほんの少し恥ずかしそうに視線を落とした。
「……じゃあ……朝ごはん、一緒に食べたい」
星華は目を瞬いた。
「雫月様と……ご一緒に?」
「だめ……?」
「だめではありません。むしろ……その……」
星華は照れを隠すように視線を逸らす。
「光栄です」
雫月の顔がぱっと明るくなる。
「じゃあ星華、このソファに座って。同じテーブルで食べよ?」
「……はい」
星華は雫月の隣に腰を下ろした。
食事を共にする――それだけの行為が、互いにとって“特別”になってしまっていた。
パンをちぎりながら、雫月は星華に尋ねる。
「ねぇ星華。救出の夜……怖かったでしょ……?」
「……はい。でも……今こうして雫月様が目の前にいてくださるから……不安はすべて消えました」
「……っ」
また心臓が痛くなる。
(星華……優しい……)
雫月は紅茶を飲みながら、ふと思い出したように星華に寄りかかった。
「ねぇ……今日、一日ゆっくりしてもいい……?」
「もちろんです。何をしましょうか?」
「星華と一緒に……お庭を歩きたい。あと……お菓子作りもしたい」
「お菓子……?」
「うん。星華が好きそうな甘いもの……作りたい」
星華は、胸の奥で何かがとても柔らかくなるのを感じた。
「……雫月様の作ったものなら、何でも好きです」
「ほんとに……?」
「はい。甘くなくても、失敗しても……俺は全部“大好き”になります」
「っ……星華……!」
雫月の顔が真っ赤になる。
「そんな言い方……わざとでしょ……?」
「わざと、かもしれません」
「えっ……!」
星華は優しく微笑む。
「雫月様が照れるのが……かわいすぎて」
「星華ぁああああ!!」
雫月はクッションで星華の胸を軽く叩く。
星華は全く痛くないので、むしろ幸せそうに受け止めていた。
朝食のあと、ふたりはゆっくり庭を歩いた。
蘭や薔薇の香りが広がる中、星華は雫月の歩幅に合わせ、隣を歩き続ける。
「星華、日の光の中だと……やっぱり綺麗だね」
「雫月様の方が美しいです」
「っ……ほんとに……今日はずるい……!」
雫月の心臓は絶えず忙しい。
星華はふと足を止め、雫月の手首をそっと取った。
「雫月様。痛くないですか?」
「? なにが?」
「その……昨晩……泣きすぎて……目が少し腫れていたので……」
「えっ!? そ、そんな見られてたの……?」
「もちろんです。泣き顔も……かわいかったので」
「か……か……星華……!!こ、ここ庭園……人が……っ!」
「大丈夫です。俺が隣にいます」
雫月はさらに真っ赤になった。
まるで花よりも赤い。
(星華……こんなに私を……)
しばらく歩いたあと、雫月は星華にそっと寄りかかった。
「こうしていると……安心する……」
「雫月様……」
「星華と歩く日常が……こんなにあったかいって……知らなかった」
星華の胸が強く響く。
こんな穏やかな時間が、ずっと続けばいいのに。
そう思った。
(雫月様の“日常”に……俺もいたい……)
「星華」
雫月が囁く。
「今日……手……ずっと繋いでてくれる……?」
「……はい。喜んで」
星華は雫月の手をそっと握り、暖かさを確かめるように指を絡めた。
ふたりの距離は、もう以前とは比べものにならないほど近い。
庭園を歩き終えたあと、ふたりは城の厨房を借りてお菓子作りをした。
粉だらけになる雫月。
その姿を見て、星華は何度も笑いをこらえる。
「星華……笑ってるでしょ!」
「いえ……かわいくて……つい」
「かわいくない!!」
「いえ、かわいいです」
「だからぁああああ!!」
雫月は星華の袖を引っ張る。
それも星華には微笑ましいだけだった。
焼き上がったクッキーを頬張って、雫月は満足げに言う。
「星華の笑った顔……もっと見たかったから……よかった」
「……雫月様の笑顔がある日常なら……俺はどこにいても幸せです」
「っ……星華……今日ほんとにずるい日……!」
雫月は胸に手を当て、小さく笑った。
(こういう時間が……ずっと続けばいいのにな……)
星華も同じことを思っていた。
──それは、不穏の影が隠れた束の間の幸福。
──そして、ふたりの距離が確実に愛へと変わっていく日々だった。




