第12話 朝日と涙、寄り添う腕の温度 ― 前半 ―
夜明けの光が王宮の白壁に差し込み、長い夜がようやく終わりを告げた。
救出から数時間。
雫月は王宮の自室に戻され、星華はそのそばに付き添っていた。
医師による簡単な診察も終わり、雫月に怪我はなく、少しの擦り傷だけという結果だった。
侍女の玲奈が安心して涙をこぼす中、星華は雫月のそばを離れず、静かにその様子を見守っていた。
「星華……」
ベッドに座る雫月が、力なく微笑む。
「ありがとう。……私のために、危ないところまで行ってくれたんでしょ?」
「当然です。雫月様を……取り戻すためなら」
星華は雫月の手を両手で包んだ。
「俺は……どこへでも行きます。どんな闇の中でも」
その声は震えていた。
(……本当に怖かったんだ)
雫月は星華の手を握り返す。
「星華も……疲れたでしょ? 休んでいいよ」
「いいえ」
星華は迷いなく答えた。
「雫月様が眠るまで、俺はそばにいます」
いつもの落ち着いた声音に戻っているのに、その奥底には熱と必死さが滲んでいた。
(星華……心が、まだ苦しんでるんだ)
救出のとき星華が見せた顔――
あの、泣き出しそうな、壊れそうな眼差しが雫月の胸に焼き付いている。
「星華。……手、震えてるよ?」
「……っ」
雫月に指摘され、星華はそっと手を隠す。
「……失礼しました。大丈夫です。ただ……」
「ただ?」
星華は雫月の目を見られず、小さく答えた。
「雫月様が……どこにも行かないと分かって……安心したら……急に、力が抜けて……」
「……星華?」
星華は胸元を押さえ、震える息で言う。
「怖かったんです。本当に……あなたが……いなくなるかと……」
その声は、今まででいちばん弱い。
雫月の胸が締め付けられた。
(星華……こんなに……私のことで……)
雫月は立ち上がり、星華の前に座ると、静かに背中へ手を回した。
「星華……ぎゅってしてもいい?」
「っ……!」
星華が驚いたように目を見開く。
「雫月様……“ぎゅって”とは……」
「抱きしめたいの。だめ?」
「……っ……だめ、では……」
星華が言葉に詰まった瞬間、雫月はそっと星華の首に腕を回した。
優しい抱擁。
そのとたん、星華の肩が震えた。
「……雫月……様……」
星華はゆっくりと腕を回し、雫月を静かに抱き寄せる。
ふたりの間に、安堵と涙が混ざり合った。
「星華。私ね……すっごく怖かったんだよ……」
「……はい」
「でも、星華の声が聞こえた気がして……“来てくれる”って信じて……目閉じてたの」
星華は息を呑む。
「雫月様……信じて……いてくださったんですか……?」
「うん。だって星華は……“私を離さない”って言ったから……」
星華の胸に熱が満ちていく。
「……雫月様……」
「だからね……星華が無事に来てくれた瞬間……涙止まらなくて……」
雫月は星華の胸に顔を埋め、震える声で続けた。
「星華がいてくれたら……私……どんな場所にいても平気なの……」
星華の腕が、強く雫月を抱きしめる。
(……俺は……どうしてここまで……雫月様に……)
心臓が苦しいほど締め付けられる。
しばらく抱き合った後、雫月が顔を上げた。
「星華……髪、乱れてるよ」
「雫月様の方が……涙で……」
「星華が泣かせるから……」
雫月は少し笑い、星華の頬に触れた。その指先の優しさに、星華は息を飲む。
「星華。怖かった時のこと……教えて?」
「……話すほどのものでは……」
「星華のことは、全部聞きたい」
「……全部……?」
「うん。だって……星華が私に全部くれたように、私も星華のこと……全部知りたいの」
星華の胸が一気に熱くなる。
(……雫月様……そんなこと……言われたら……)
「雫月様……俺は……」
星華は雫月の髪をそっと撫でた。
「あなたに……弱いところを見せるのが……怖くなくなりました」
「ふふ……嬉しいな」
雫月は嬉しそうに目を閉じ、星華の手に頬を寄せる。
「もっと……触れていいよ?」
「っ……!」
星華が硬直する。
「触れるだなんて……雫月様に……その……あまりに……」
「いやなの?」
「……いやでは……ありません」
「じゃあ……触って?」
星華の喉が震えた。
(雫月様……どうしてそんな……可愛いことを……)
星華はそっと雫月の頬に触れ、指先で涙の跡をなぞった。
「……こうですか……?」
「うん……星華の手……あったかい……」
雫月はまた涙をこぼした。
「私ね……星華が触れると…胸がぎゅってして……苦しいの……」
「……俺もです」
「え……?」
「雫月様が触れると……心臓が痛いくらい跳ねます……」
雫月の顔が真っ赤になる。
「星華……それって……」
(好きってこと……だよ……)
雫月は言いかけた。
しかし星華の手が雫月の唇にそっと触れ、柔らかく制した。
「……まだ言わないでください」
「……っ」
「あなたの言葉を聞いたら……俺……抑えられなくなります」
雫月の心臓が跳ねた。
(星華……そんなこと……言えるようになったんだ……)
ふたりの距離は、息が触れるほど近い。
でも、星華は必死にこらえていた。
(今言ったら……きっと“戻れなくなる”)
星華の瞳は真剣で、雫月の心をすべて吸い込んでしまいそうだった。
「雫月様」
「……ん……?」
「どうか……俺のそばから……離れないで」
雫月は星華の胸に手を置き、静かに答えた。
「離れないよ。星華が望む限り……ずっと」
星華は息を震わせ、雫月の手を両手で包み込む。
「……ありがとうございます……雫月様……」
胸の奥で、ふたりの想いがゆっくり形になり始めていた。
雫月が少し落ち着いた頃、侍女・玲奈がノックし、控えめに声をかけた。
「殿下……お加減はいかがでしょうか」
「うん……もう大丈夫」
雫月は星華に寄り添ったまま答える。
「あの……殿下、少し……お伝えしづらいのですが」
「なに?」
玲奈が眉を寄せ、不安そうな表情で続けた。
「実は……王宮の周囲で、昨夜から不審な影が複数目撃されています」
「え……?」
雫月の表情が強ばる。
星華の目が鋭く光る。
「……夜叉、か……」
平穏の時間は、まだ終わらない。
雫月の誘拐は“始まり”にすぎなかった。
だが、その緊張の中でも――
ふたりの手はしっかりと繋がれていた。




