第10話 奪われた光、動き出す闇 ― 前半 ―
その日は、いつもより穏やかな朝だった。
雫月と星華は、昨日の甘い時間の余韻を引きずったまま、散歩をしていた。
「星華、今日も……その……一緒にいてくれる?」
「もちろんです。雫月様と共にいられるなら、俺は――」
星華が言いかけた瞬間、
「殿下!」
侍女・玲奈が駆け寄ってきた。
息が乱れている。顔色も悪い。
「どうしましたか?」
星華が前に出て雫月をかばう。
「……城門近くで、不審な影が複数……警備が追っていますが……数が多すぎます」
「……!」
星華の背筋に緊張が走る。
「雫月様。すぐに宮中に戻りましょう」
「う、うん……」
星華は雫月の手を取ろうとした。
しかし――その瞬間だった。
風が、逆巻いた。
城門方向から突風のような衝撃が走り、庭園の木々が一斉にしなる。
「っ……!」
「雫月様、下がって――!」
星華が雫月を抱き寄せた刹那。
一陣の黒い影が風に溶けるように現れた。
雫月の背後。
気づく暇はほとんどなかった。
「――“確保”」
凍りつくほど冷たい声。
黒いマントの男が雫月の肩を掴む。
次の瞬間、空気が歪む。
「やめ――!」
星華が叫んで手を伸ばした。
だが、黒い光が弾けるように視界を覆い――
雫月の姿が、掻き消えた。
「………………っ!」
静寂。
それから、遅れて心臓が握りつぶされるような痛みが星華を襲った。
「雫月様――――ッ!!」
星華の声が庭園全体に響いた。
その場には、冷たい黒い羽がひらひらと落ちていた。
それは《夜叉》が任務の後に残す“痕跡”。
星華は震える手でその羽を掴む。
「夜叉……ッ……!!」
歯を食いしばり、血の味が口に広がる。
(また……奪われた……俺の……光が……)
胸の奥で、何かがゆっくり音を立てて崩れていく。
「星華様……どうか落ち着いて……!」
玲奈が震える声で星華を支えようとするが――
星華は立っていられないほど膝を震わせていた。
「落ち着けるはずが……ないでしょう……」
声は低く、今にも壊れてしまいそうなほど脆い。
「雫月様が……俺の目の前で……」
雫月を失った世界が一瞬で暗くなる。
視界の色が消え、胸の痛みだけが鮮烈に残る。
(雫月様……雫月様……雫月様……)
呼んでも、返事はない。
まるで胸の中心を引き裂かれたように、星華の心が痛んだ。
(……俺は……守れなかった……)
その瞬間。
胸の奥の何かが、完全に壊れた。
「……夜叉」
星華の声が変わる。
いつもの優しさが消え、底のない闇だけが残った声。
「殺す……全員……」
「星華様!!」
玲奈が星華の腕を掴む。
いつもの雫月のための穏やかな青年ではない。
今の星華は――
“十三番”に戻りかけていた。
「邪魔をしないでください」
星華が玲奈の手を振り払った瞬間、
空気がびりっと震える。
星華から発せられる殺気があまりに濃い。
「雫月様を――“奪った”者を、許せるわけがない……!」
視界が赤く染まりそうだった。
思考が焼き切れそうだった。
だが――
星華の首元に触れた、ひんやりとした雫月の指先の記憶が蘇った。
『私は星華のそばにいたいだけなの』
『星華の涙は……私が拭きたい』
『手を離さないで』
胸が刺さるように痛む。
(……雫月様……)
星華は目元を押さえ、その場に片膝をついた。
「……俺は……なにを……」
殺意に飲み込まれた自分に気づき、強く唇を噛む。
(俺が……“戻ってしまったら”……雫月様は……悲しむ……)
雫月はいつも言っていた。
『今の星華が好き』
その想いを裏切るわけにはいかない。
「星華様……殿下を取り戻す方法を考えましょう」
玲奈の言葉に、星華はゆっくり顔を上げる。
「……取り戻す……?」
「はい。殿下は必ず星華様が来ると信じています。だから……行きましょう。必ず」
星華の胸に、わずかに光が戻った。
(……そうだ。雫月様は……俺を信じてくれる人だ……)
澄んだ目で言ってくれた言葉。
『星華は、私を傷つけたりしない』
『星華に守られてるって思えるの』
星華は立ち上がった。
震える手を握りしめ、深く息を吸う。
「……迎えに行きます。何があっても……雫月様を取り返す」
その声は、強かった。
涙の跡が残る眼差しで、それでも前を向いていた。
星華は黒い羽を握りつぶし、静かに呟く。
「――待っていてください、雫月様」
その一歩は、大切な人を奪われた青年ではなく、ただひとりの想いに突き動かされる“守る者”の一歩。
この瞬間――
星華の運命の歯車が、さらに大きく回り始めた。
その頃、薄暗い部屋の中。
雫月は目を覚ました。
「……ここ……どこ……っ」
腕を縛られたまま、椅子に座らされている。
すぐに悟った。
ここは――敵の拠点。
「星華……星華……っ!!」
何度呼んでも返事はない。
でも、雫月は泣かない。
震えながらも、強く目を閉じて呟く。
「……来る。星華は必ず来る……だって……星華は私を離さないって……言ってくれたから……!」
涙をこらえ、雫月は必死に自分の心を支えた。
「星華……来て……お願い……」
その声は、小さく震えながら――
確かな信頼に満ちていた。




