第9話 触れた指先、名前にならない想い ― 後半 ―
図書室で抱きしめ合ったあと、二人はしばらく言葉を交わさなかった。
静かな時間。
それは昨日の恐怖を癒やすように、そっと心を包んでいた。
星華は抱きしめていた腕をゆっくり解き、雫月の顔を覗き込む。
「……すみません。雫月様を……抱きしめてしまうなんて」
「いいのよ。むしろ、嬉しかった……」
「雫月様……?」
雫月は胸の前で手を組み、少し恥ずかしそうに目を伏せる。
「星華が……私を求めてくれたんでしょ……?なら、嬉しくないはずないよ……」
その言葉は、星華の胸に鋭く、しかし甘く届く。
(……こんなふうに思われているなんて……)
星華の頬がかすかに赤く染まる。
雫月はその顔をそっと覗くと、さらに微笑んだ。
「星華……照れてる?」
「い、いえ……!」
「照れてるわね? 顔赤いもの」
「……雫月様の方が赤いです」
「わ、私のせいじゃないし……!」
雫月はぷいと顔をそらせるが、その耳は真っ赤だ。
星華は小さく笑い――
その笑顔に、雫月の胸がまたきゅんと鳴った。
「ねぇ星華。……お散歩、続けよ?」
「はい。雫月様が望むなら、どこへでも」
「じゃあ……舞踏室、行ってみたい」
「舞踏室、ですか?」
「うん。朝の光が綺麗なの。それに……“誰もいない”から」
誰もいない。
その言葉に星華の胸が妙にざわつく。
(……雫月様と二人きり……それがこんなにも……落ち着かなくなるとは)
「行きましょ?」
「……はい」
二人は図書室を出て、長い廊下を歩き舞踏室へ向かった。
途中、侍女数人とすれ違うが――
星華の雫月を見る目が、いつもよりどこか強い。
侍女たちはその空気に気づき、ひそひそ声で笑いながら去っていった。
「ねぇ……星華」
「何でしょう?」
「今……ちょっと怖かった」
「怖い?」
「星華が……“誰にも近づけたくない”みたいな顔してた……」
星華は思わず立ち止まる。
「……そんな顔、していましたか?」
「うん。なんだか……守られてる感じじゃなくて……“独り占めされてる”みたいだった」
雫月は胸に手を当てて、小さく深呼吸する。
「でも……嫌じゃなかった」
星華の呼吸が止まる。
(……独り占め……)
その言葉は、星華の心のどこか“触れてはいけない部分”を揺らす。
「雫月様……俺は……」
言葉が続かない。
(俺は……雫月様を……誰にも渡したくない……?)
その感情の正体に触れかけて、星華は無意識に雫月の手を握った。
「……星華?」
「どうか……俺から離れないでください」
雫月の心臓が跳ねた。
星華の手は少し冷たく震えているのに、握りしめる力だけは強かった。
「……離れないよ。星華が望む限り、ずっと一緒にいる」
星華の瞳が揺れ、安堵の色が広がった。
舞踏室
大きな窓から光が差し込み、磨かれた床が淡く輝く。
誰もいない広い空間。
雫月はそっと星華の手を引いた。
「ここ……綺麗でしょ?」
「……はい。雫月様に似ています」
「っ……!」
また言ってしまった。
星華のこういう自然な言葉は、雫月の心に直接刺さる。
「星華……ほんと、ずるい……」
「ずるい……ですか?」
「そうよ……。そんな綺麗なこと言われたら……私……」
雫月は星華の胸に顔を埋め、小さく呟く。
「……また好きになっちゃう……」
星華の心に鋭い衝撃が走る。
(……雫月様の“好き”は……俺に向いている……?)
胸が熱くなる。
自分の心がまた震え出す。
(それなのに……俺はまだ……)
名前をつけられない。
けれど――
「雫月様」
「なに……?」
「……踊りませんか?」
雫月は目を丸くする。
「え……? 星華、踊れるの?」
「いえ。……あなたとなら、踊れる気がしました」
雫月は頬を赤らめ、そっと星華の手を取った。
二人はぎこちなく歩み寄り、自然と胸の前で手を重ねる形になる。
音楽はない。
けれど――心臓の音が優しく刻む。
「星華……手、もう少しこっち」
「こう、ですか?」
「……うん……」
踊りかたはぎこちない。
でも、互いの距離は限りなく近い。
歩幅が合わなくて、雫月の額が星華の肩に触れた瞬間。
「……雫月様……」
「ごめ……っ」
「いいえ。その……温かいです」
雫月は肩に額を寄せたまま、息を吐く。
「星華。……ずっと、こうしていたい」
星華の胸が熱くなり、言葉が溢れた。
「俺も……雫月様がそばにいると……苦しくて……」
「苦しくて……?」
「……いなくなるのが、怖いんです」
雫月は星華の頬に手を添えた。
「星華……」
「あなたが笑うたび……胸がきつくなる。誰かと話しているだけで……心がざわめく」
雫月はゆっくり星華を見上げ、息をのんだ。
「それはね……星華」
雫月は星華の胸元をぎゅっと掴み、囁くように言った。
「それを“好き”って言うのよ」
星華の心臓が跳ねた。
(好き……?俺が……雫月様を……?)
頭が真っ白になりかけた瞬間――
星華の手が、無意識に雫月の腰を引き寄せた。
「っ……!」
雫月の息が止まる。
「……雫月様……」
「星華……?」
「今……雫月様を手放したくないって……全身で思ってしまいました……」
雫月の瞳に熱が宿る。
「……手放さなくていいよ?」
「……いいんですか?」
「うん。手を離したら……私が泣いちゃう」
星華は雫月を抱きしめ、静かに目を閉じた。
「……離れません」
「約束だよ?」
「はい……雫月様」
ふたりは舞踏室の真ん中で、しばらく言葉もなく寄り添っていた。
温かさだけを確かめるように――
だがその頃、王宮の外。
薄闇をまとった男が、静かに呟く。
「十三番……皇女を守るために、あそこまで感情を乱すか……」
「対象の関係は予想以上。“強制分断”が必要だな」
冷たい声が夜気に溶けた。
「次の任務――“皇女誘拐”。準備を始めろ」
甘く満たされた日常に、闇の影が確実に近づいていた。




