第9話 触れた指先、名前にならない想い ― 前半 ―
王宮の朝は静かだった。
まだ人の気配が薄い廊下に、かすかな光が差しこんでいる。
雫月は昨夜から胸が落ち着かず、早めに部屋を出て散歩に出た。
星華と過ごした温室の夜が、ずっと胸の中で温かく響いているからだ。
(……星華、今日もそばにいてくれるかな)
考えただけで頬が熱くなる。
昨日、星華に思わず泣きながら抱きついたことを思い出すと、余計に胸がざわついた。
あれは恥ずかしかった。
でも……星華が、優しく包んでくれたあの時間は――
(幸せだった……)
雫月は頬に手を当て、小さく息を吐いた。
「……おはようございます、雫月様」
「っ……!」
反射的に振り返ると、そこには星華が立っていた。
いつもの執事服。
いつもの穏やかな瞳。
なのに昨夜よりずっと近く感じる。
「星華……早いのね」
「雫月様を探していましたから」
その一言で雫月の胸がふわりと跳ねる。
「わ、私を?」
「はい。……少しでも姿が見えないと、不安になります」
星華が、顔を伏せて小さく言う。
それは“執事の義務”としての言葉ではなかった。
胸が痛い。
でも、それ以上に――嬉しい。
「星華……もう、そういうこと言うの……反則……」
「反則、ですか?」
「そうよ……。胸が苦しくなるんだから……」
雫月が呟くと、星華は一瞬だけ目を見開き、すぐに柔らかい表情で言った。
「俺も……胸が苦しくなるんです。あなたがいないと」
雫月は言葉を失った。
(……星華も……私と同じなの……?)
「雫月様。今日は……何をしたいですか?」
「え……?」
「昨日……“日常を過ごしたい”と仰っていたので。雫月様のしたいことを、俺に教えてください」
言葉の端々に滲む“あなたと一緒にいたい”という想い。
雫月の胸は、もう抑えられないほど温かくなる。
「星華……じゃあ……今日はね……」
言おうとした瞬間――
「雫月様。髪に、花弁がついています」
「え?」
星華がそっと手を伸ばす。
触れられる――と思った瞬間、雫月の心臓が跳ねた。
星華の指先が、雫月の髪に触れた。
指先は少し震えている。
(星華……まだ少し、緊張してる……?)
けれど、その手つきは驚くほど優しかった。
すぐに花弁は取れた。
星華はそれを掌に乗せ、視線を落とす。
「……白い花弁ですね。昨日、温室にあった花でしょうか」
「う、うん……たぶん……」
雫月は頬を赤らめ、星華の横顔を見つめた。
(こんなに近くで……触れられるなんて……)
「雫月様」
「なに……?」
星華は雫月の頬に落ちた赤みを見て、ほんの少し困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「昨日の涙のせいか……目が少し赤いです。本当に……泣かせてしまったんですね、俺は」
「ちがうの……星華のせいじゃない……。星華が守ってくれたから……泣いたの」
「守りたかったんです。雫月様が、あんなに苦しそうで……」
星華の目がまた少し悲しそうに揺れる。
雫月は星華の両手を、そっと包むように握った。
「星華、私ね――星華が守ってくれるのも大好きだけど……」
「……雫月様?」
「星華が私を頼ってくれるのは……もっと好きなの」
星華の瞳がわずかに震える。
「俺が……雫月様を……頼る……?」
「うん。昨日、星華が苦しそうにしてたとき……私、逃げてこなかったでしょ?」
「……はい」
「だってね、星華が苦しいなら……一緒に苦しくなりたいって思うの」
星華は、胸を押さえた。
苦しそうではなく――温かくてたまらないように。
「雫月様……あなたは……どうして……そんなに……」
「星華が大切だからよ」
その一言で、星華の呼吸が止まった。
(大切……俺が……?)
胸がぎゅっと痛くなる。
それは恐怖ではない。
雫月を“守りたい”だけではない。
雫月のそばに“いたい”という願いだった。
「雫月様。本日は……図書室に行きませんか?」
「図書室?」
「人が少なく、静かで……昨日のようなこともありません。雫月様が安心して過ごせる場所かと」
「……星華が一緒なら、どこでも安心だけど……でも、図書室……いいわね」
雫月は素直に笑った。
星華はその笑顔を見て、胸の奥に言葉にできない高鳴りを覚えた。
(こんな顔を……他の誰にも見せてほしくない)
気づかぬうちに、星華の独占欲が静かに目を覚ます。
図書室。
大きな窓から差し込む光が、木製の棚に並ぶ古書を温かく照らしている。
雫月はお気に入りの本を手に取り、星華の隣の席に座った。
「星華、これ読んだことある?子供の頃よく読んでたの」
「いえ……記憶がないもので」
「あ……そっか……ごめん……」
「謝らないでください。記憶にあるより、雫月様と読む方が……俺は好きです」
「っ……!」
雫月は本を落としかけた。
「も、もう……星華……!どうしてそんな……心臓に悪いこと言えるの……!」
「? 俺はただ、思ったことを言っただけですが……」
「それがダメなの……!心が揺れちゃうの……!」
雫月の頬は熱く、目は潤んでいる。
星華は自分が何をしてしまっているのか徐々に理解してきた。
(……雫月様を……好きに……)
言葉にした瞬間、戻れなくなる気がして。胸が苦しくなる。
(けれど……離れたくない……)
その葛藤を抱えたまま、星華は雫月に目を向ける。
「雫月様……。俺も、胸が揺れてばかりなんです」
「……え?」
「あなたを見るたび……昨日より今日の方が……もっと……」
星華は言いかけて、言葉を飲み込んだ。
(ダメだ……まだ言えない……この気持ちに“名前”がついてはいけない気がする……雫月様を危険に巻き込んでしまう……)
雫月はその苦しげな表情を見て、小さく微笑んだ。
「星華。言わなくていいよ。いつか、言える時が来たらで」
「……っ……雫月様……」
その優しさが、逆に星華の胸を締めつけた。
二人が静かに本を読んでいると、雫月はふと気づいた。
星華の指先が、さっきからずっと震えている。
「星華?」
「はい……?」
「……怖いの?」
星華は少し黙ってから、正直に言った。
「……あなたがいなくなるのが、怖いです。昨日……あの刺客に狙われて……あなたを失う恐怖を……初めて知りました」
雫月は本を閉じ、星華の手をそっと握った。
「星華。私……どこにも行かないよ」
星華は堪えきれず、雫月を強く抱きしめた。
「……雫月様……っ……」
図書室に、二人の影が重なる。
「星華……大丈夫……ここにいるよ」
雫月も星華の胸に腕を回し、その背を撫でた。
その温もりが、星華の震えを静かに溶かしていく。
(……離れたくない……ずっと……この腕の中に……)
星華の胸の奥に、静かで強い願いが芽を出していた。
図書室の外――
薄暗い廊下の影の中で、黒いフードの人物が小さく呟いた。
「……確認。皇女と十三番、行動を共にしている」
「“回収”は、近い……」
その声は影へ溶けるように消えた。
甘い日常の裏で、確実に“闇”が近づいていた――。




