第5話 ふたりで歩く帰り道 ― 前半 ―
市場でのひとときを楽しんだ雫月と星華は、午後のゆるやかな日差しを浴びながら王都の外れへ続く並木道を歩いていた。
遠くで鳥たちがさえずり、風に揺れる木々の葉が柔らかい音を奏でる。
王都の喧騒が少しずつ遠ざかり、代わりに静かな余韻が満ちていく。
「はぁ……今日はいっぱい歩いたわね」
「お疲れではありませんか、雫月様」
「ううん。全然疲れてないの。だって……星華と一緒だから」
雫月は手提げ袋を抱えたまま、ふわりと微笑んだ。
その笑顔が眩しくて、星華は思わず目をそらしてしまう。
「俺は……雫月様に楽しんでいただけたなら、それで十分です」
「星華がいたから楽しかったの。私はね……あなたと過ごす時間がすごく好きなの」
「っ……」
ふいに向けられた雫月の素直な言葉。
それは星華の胸の中に温かい火を灯し、彼の表情をぎこちなくさせた。
「……ありがとうございます」
「えへへ……照れてる」
「照れては……いません」
雫月はくすりと笑った。
並木道は王宮へ向かう途中に位置しており、そこまで賑わってはいない。
道の両側に咲く白い小花が、歩く二人を祝福するようにひらひらと揺れていた。
「ねぇ星華」
「はい」
「王都に来る前……私、ひとりで歩くの、少し寂しかったの」
「……そうなのですか?」
「うん。今まではお母様や侍女の人が一緒にいてくれたけど……最近は公務も増えて、自分の足で歩かなきゃいけなくなって」
雫月は足元の影をやさしく見つめて言う。
「でもね……」
その瞳がまっすぐ星華に向けられる。
「星華がいてくれるなら……私はどこだって歩けるわ」
「……雫月様」
「だって星華は、私が転びそうになったらすぐ支えてくれるし……怖い人がいたら守ってくれるし……私のこと、ちゃんと見てくれてるんだもの」
星華は胸の奥がぎゅっと締めつけられるような感覚に襲われた。
「……そんなふうに思っていただけるとは……思っていませんでした」
「当然よ。星華は……私にとって大切なんだから」
その言葉に、星華の心は一瞬止まりかけた。
「だ……大切……」
息が詰まるほどの重さと甘さを含む言葉。
雫月は、星華の心の動揺に気づかず、優しく続ける。
「星華はね。私の……大事な人なの」
星華の頬が、ほんのり赤く染まった。
(……大事な人……)
その言葉は星華の胸の奥深くに刺さり、暖かい痛みのような感情がじわじわと溢れてくる。
「……雫月様、俺など――」
「“俺など”は禁止!」
雫月が星華の腕を軽く叩き、口を尖らせる。
「星華は……大切な人。だから、自分を下げるようなこと言わないで」
「……はい」
雫月の真剣な瞳を見つめ、星華は静かに頷いた。
ふたりが並木道を歩くたび、自然と肩が触れそうな距離になる。
そのたびに雫月は少しだけ嬉しそうに微笑み、星華はそっと視線を逸らしてしまう。
(……こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう)
星華は自分の胸に手を当て、ゆっくりと息を吸う。
雫月の存在が、彼に何を与えているのか――
まだ正確には分からない。
ただ一つだけ確かなのは、“雫月といると心が穏やかになる”ということだった。
「星華、見て! ほら、あそこ!」
雫月が指差した先には、小さな湖があった。
並木道の奥に突然現れた透明な水面は、春の日差しを受けてキラキラと輝いていた。
「ここ……こんなに綺麗だったんだ」
「はい。王都でも有名な場所らしいです」
「知らなかった……星華、一緒に行ってみようよ!」
雫月は星華の手を自然と握って引っ張る。
星華はその柔らかい手に触れ、少しだけ言葉を失う。
(……雫月様は……こんなにも自然に触れてくれるのか)
手の温もりが心臓まで響き、胸が詰まるように熱くなる。
けれど――嫌ではない。
むしろ、手を握り返したくなるほどに、安心する温度だった。
「わぁ……!」
湖に着いた雫月は、風にスカートを揺らしながら大きく深呼吸した。
「すごい……水が鏡みたい……!」
「綺麗ですね」
「ねぇ星華、ちょっとこっち来て」
雫月は湖のほとりに立ち、水面を指さした。
「ここ、見て?」
星華がしゃがんで覗き込むと――
二人の姿が、ゆらゆら揺れながら水に映っていた。
「ほら、二人が並んでる」
「……本当ですね」
「ね、なんか……嬉しい」
雫月は星華の肩にそっと寄り添う。
「私、こういう時間が好きなの。星華と一緒に、ゆっくりしてる時間……」
星華の胸がどくんと跳ねた。
「雫月様……」
水面には、寄り添う二人の姿が映る。
少し照れて顔を赤らめている星華と、楽しげに笑う雫月。
「星華、嬉しくない?」
「……はい。とても」
星華は静かに、しかし確かに言った。
「雫月様と歩いて……話して……一緒に笑うことが……心から嬉しいです」
「っ……!」
雫月の頬が一気に赤くなる。
胸の奥がじんわりと熱くなり、目が潤みそうになるほどだった。
「そ、そんなこと言われたら……私……」
「雫月様?」
「……ずるい……星華の方がずるいの……」
雫月は星華から顔をそむけても、手を離そうとはしない。
「……やっぱり……星華の隣は落ち着く……」
星華はその横顔を見つめる。
心臓が弱く音を立てる。
(雫月様……俺などに……こんなにも)
雫月の表情、雫月の声、雫月の手の温度。
どれもが星華の心を優しく締めつけていた。
そしてもうひとつ――
雫月の隣にいる自分に対する新しい感情が芽生え始めていた。
(この人を……失いたくない)
それは、決して執事としての義務ではない。
もっと、深く……温かい感情。
星華はその感情に名前をつけることはできなかったが――
確かにそれは、胸の中心に灯りをともしていた。
「そろそろ帰りましょうか」
「うん……帰りたくないけど、帰らなきゃ」
「また来ればいいですよ」
「えへへ……そうね。また来ようね、星華」
「はい。雫月様さえ望むなら、いつでも」
雫月は少し照れながら星華の手を握り直した。
「……それ、すごく嬉しい」
ふたりは並んで歩き出し、夕陽が湖面に優しく差し込む。
青く透明な水面に、ふたりの影が寄り添うように伸びていた。
(雫月様……)
(星華……)
互いの名前を胸の中でそっと呼びながら、
二人は王宮へと、一歩ずつ歩いていった。




