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「藤と藤の間に —古都に咲いた二つの花のドキュメンタリー—」(架空ドキュメンタリー)


#### ナレーション記録:京都春物語 第一稿


 私がこの二人の物語を撮り始めたのは、去年の春だった。最初は京都の古寺と藤棚を撮影する短いドキュメンタリーのつもりだった。しかし、カメラが捉えたのは、花よりも美しい二つの人生だった。


 これは私の作品であると同時に、彼女たちの真実の記録でもある。


---


#### 映像:藤棚の下(春 4月)


 太陽の光が藤棚の隙間から漏れ、紫色の花々が風に揺れる。その下を歩く白い着物姿の女性。六十代後半、凛とした佇まいだが、どこか寂しげな表情をしている。これが藤井佐和子、元華道家元の令嬢だ。


「撮影してもよろしいですか?」


「構いませんよ。でもこんな老婆より、藤の花の方が絵になるでしょう」


 彼女の声は穏やかだが、どこか諦めのようなものが混じっている。カメラは彼女の手元に寄る。長く美しい指、しかし関節はやや腫れている。五十年以上、花を生けてきた手だ。


「いつもここに来られるんですか?」


「ええ、毎年。藤の花の季節には必ず」


 佐和子さんは藤棚を見上げ、微笑んだ。その笑顔には何かが隠されているように見えた。


---


#### インタビュー:藤井佐和子(撮影日:5月2日)


 茶室のような静かな居間。障子越しの柔らかな光の中、佐和子さんが正座している。壁には一幅の掛け軸。「無常」と一字、力強く書かれている。


「藤棚には思い出があるのですか?」


「ええ……」


 佐和子さんは少し躊躇った後、ゆっくりと語り始めた。


「私が十八の時、祖母が亡くなり、家元を継ぐ準備を始めました。毎日が厳しい稽古で、自分の時間など皆無でした。唯一の逃げ場が、あの寺の藤棚だったのです」


 彼女は遠くを見るような目をした。


「ある日、そこで出会ったのです。藤原という名の、私と同い年の女性に」


 カメラは佐和子さんの表情を捉える。彼女の目に涙が浮かぶ。


「藤井と藤原。私たちはそれを運命だと思いました」


---


#### アーカイブ映像:1970年代の京都(5月10日に資料館で発掘)


 古い8mmフィルムの映像。色褪せているが、同じ藤棚の下で二人の若い女性が笑っている。一人は着物姿の佐和子、もう一人は洋装の女性。髪を短く切り、活発そうな印象だ。二人は肩を寄せ合って立っている。親しげだが、どこか遠慮がある様子。


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#### インタビュー:近所の古老(撮影日:5月15日)


「藤原さんですか? ああ、写真家の道子さんですね。外国にもよく行かれる方でした。あの頃は女性で写真家というのは珍しかったですからね。とても物静かだけど、芯の強い方でしたよ。確か、佐和子さんとはよく一緒にいましたね。お二人とも、お嬢様育ちなのに、なぜか気が合ったようで」


 老人は意味ありげに微笑む。


「でも、あの事件の後、藤原さんは海外に行ってしまいました。もう戻っていないようですね」


---


#### 映像:佐和子の茶室(6月)


 佐和子さんが古いアルバムを開く。その指先は震えている。ページをめくると、さまざまな場所で撮られた二人の写真が出てくる。京都、東京、そして海外の風景。二人の距離は、ページをめくるごとに近づいていく。


「道子は写真家になりたかったのです。私は家元を継ぐことになっていました。二つの世界……」


 佐和子さんは写真の上を優しく撫でる。カメラは一枚の写真に寄る。二人が藤棚の下で手を繋いでいる。


「家族は反対しました。『交友関係に気をつけなさい』と。当時は、二人の女性が親しくするだけでも噂になりましたから」


 佐和子さんは深く息を吸い、静かに吐き出した。


「それでも私たちは会い続けました。秘密の場所で……」


---


#### アーカイブ資料:地元新聞(1975年7月)


「華道家元後継者と不適切交際の疑い」という見出し。詳細は書かれていないが、「藤原道子」という名前が小さく記されている。


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#### 映像:夕暮れの藤棚(7月)


 花は散り、葉だけになった藤棚。佐和子さんがベンチに座っている。


「家は私に縁談を進めていました。良家の男性との。断ろうとしましたが……」


 佐和子さんは長い沈黙の後、続けた。


「道子は『二人で海外に行こう』と言いました。当時、私たちのような関係でも生きていける国があると」


 彼女は苦笑する。


「でも、私には責任がありました。家元の血筋を絶やすわけにはいかなかった」


 カメラは佐和子さんの左手の薬指に寄る。薄い指輪の跡がある。


「結局、私は家を選びました。道子は一人でパリに発ちました」


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#### インタビュー:佐和子の娘(撮影日:8月3日)


「母は完璧な家元でした。厳しく、美しく、誰からも尊敬される人でした。でも、子供の頃から感じていました。母の中に何か……埋もれたものがあることを」


 四十代の女性は窓の外を見る。


「母は毎年、藤の季節になると一人で出かけます。帰ってくると、少し泣いた跡があるんです。子供の頃は不思議でしたが、今は……」


 彼女は言葉を切る。


「去年、海外から一通の手紙が届きました。差出人は"藤原道子"。母はその手紙を読んで、泣いていました。でも、それは悲しみの涙ではなかったと思います」


---


#### 映像:佐和子の書斎(9月)


 佐和子さんが一通の手紙を取り出す。青いインクで書かれている。


「読ませていただいてもいいですか?」


「いいえ」


 彼女ははっきりと断る。しかし、手紙の最後の一文が見える。


「今でも、藤の花が咲くたびに、あなたを思います」


 佐和子さんは手紙を大切に箱にしまう。


「道子はパリで有名な写真家になりました。日本には戻らなかった。私は家元を継ぎ、結婚し、娘を産みました。それぞれの道を歩んだのです」


---


#### 映像:パリの写真展の資料(10月にフランス文化協会から入手)


「藤原道子写真展:京の記憶」というポスター。中央には藤棚の写真。その下に立つ若い女性の後ろ姿。


 展示リストの中に「約束の藤」と題された作品がある。二人の女性の手が重なる接写。顔は写っていない。


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#### インタビュー:佐和子(撮影日:11月1日)


「後悔していますか?」


 佐和子さんは長い間考え、ゆっくりと首を横に振った。


「後悔はしていません。私は私の道を選びました。道子も彼女の道を。私たちは離れていても、心はずっと繋がっていたのです」


 彼女は窓の外を見る。


「でも、またやり直せるとしたら……」


 彼女は言葉を切り、微笑んだ。


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#### 映像:京都国際空港(3月15日)


 到着ロビー。佐和子さんが緊張した面持ちで立っている。手には小さな花束。藤の花だ。


 ゲートから出てくる乗客たち。その中に一人、杖をついた洋装の老婦人。白髪の短い髪、首にはスカーフ。カメラはゆっくりと彼女の顔に寄る。藤原道子、七十歳。フランスで五十年を過ごした後、ついに帰国した。


 二人の視線が合う。佐和子の手が震える。道子はゆっくりと近づき、立ち止まる。長い沈黙の後、二人は言葉ではなく、手を取り合う。


 カメラはそっと二人から離れていく。


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#### ナレーション:最終稿


 時に人生は、花のように咲き誇ることを許されない。しかし、根は地中で生き続け、いつか再び芽吹く日を待っている。


 佐和子と道子、二人の物語は終わっていなかった。新しい季節が、五十年の沈黙を破って訪れたのだ。


 藤棚の下で交わした約束は、半世紀の時を超えて、ついに果たされた。


 二人は今、京都の古い町家で暮らしている。佐和子は若い華道家たちに伝統を教え、道子は日本の風景を撮り続けている。


 そして毎年、藤の花が咲く季節になると、二人は同じ場所を訪れる。かつて別れを告げた場所で、今は共に時を刻むために。


---


#### エンドクレジット(画面に表示されるテキスト)


 このドキュメンタリーは、藤井佐和子さんと藤原道子さんの許可を得て公開されています。二人の勇気ある決断と、新たな人生への一歩が、同じ境遇にある多くの人々に希望を与えることを願って。


 世界は変わりました。しかし、変わらないものもあります。

 藤の花が咲くように、真実の愛もまた、時を超えて咲き続けるのです。

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