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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「硝子の花園」(幻想ファンタジー)

 はじめて彼女を見たのは、ロンドン郊外の古びた温室だった。1895年、ヴィクトリア朝も終わりに近づく頃のことだ。


 私はガラス職人のマシュー・ホイットフィールド。オックスフォード通りの工房で、ステンドグラスや装飾品を作ることを生業としていた。しかし本当の情熱は、ガラスでできた花を創ることにあった。


 ある日、ケンブリッジ卿から奇妙な依頼を受けた。彼の所有する温室にガラスの花を飾ってほしいというのだ。


「本物の花と見分けがつかないほどの精巧さで、しかも一瞥しただけでガラスだとわかる——そんな矛盾した作品を作れるのは、ホイットフィールド氏しかいない」


 卿の言葉は挑戦的だった。私は思わず身を乗り出した。


「いつ拝見できますか、その温室を」


 翌日、馬車に揺られて卿の屋敷に向かう途中、窓から見える景色に心が躍った。初冬の冷たい霧が野を覆い、木々の枝先に宿った霜が朝日に輝いていた。それは、まるでガラス細工のようだった。


 屋敷に到着し、卿の執事に案内されて大きな温室へと足を踏み入れた瞬間、私は息をのんだ。


 熱帯の植物、珍しい蘭、色とりどりの花々が生い茂る楽園。しかし、それよりも私の目を引いたのは、温室の中央で花に水をやっている一人の女性だった。


 黒髪を結い上げ、簡素な紺色のドレスに身を包んだ彼女は、どこか儚げで、しかし凛とした佇まいをしていた。光に透かされた彼女の横顔は、最高級のクリスタルを思わせた。


 卿が私の存在を告げ、彼女は振り返った。


「これが私の庭師兼助手のクラリス・ウィンターだ」


 彼女の目は、まるで透き通ったアクアマリンのように青かった。


「ホイットフィールド様、噂は伺っております」


 彼女の声は、クリスタルグラスを指で優しく弾いた時のように、静かに響いた。


 その日から、私は定期的に温室に通い、ガラスの花の制作を始めた。クラリスは常に側にいて、本物の花の細部を教えてくれた。彼女の知識は驚くほど豊富で、一つ一つの花の歴史や意味、香りの特徴まで語ってくれた。


「薔薇の棘は、触れる者を拒むためではなく、大切な美しさを守るためにあるのです」


 彼女はそう言いながら、指先に血を滲ませた。その一滴の赤が、白い薔薇の花びらに落ちた。


 私たちは毎日のように語り合った。彼女の言葉一つ一つが、私の心を揺さぶり、そして私のガラス細工に命を吹き込んでいった。


 ガラスの蘭、チューリップ、水仙、そして薔薇——私の作品は次々と温室を彩り始めた。太陽の光を受けて七色に輝くそれらの花は、生きているかのようだった。しかし、不思議なことに本物の花々と調和し、決して場違いに見えなかった。


 クラリスは私の作品を静かな喜びで見つめ、時に指先で優しく触れた。


「まるで、触れれば溶けてしまいそう」


 彼女のその言葉が、なぜか胸に痛みをもたらした。


 制作が進むにつれ、私はクラリスに心惹かれていった。彼女の知性、優しさ、そして何か言葉にできない儚さ——それらすべてが、私を魅了した。


 ある雨の日、温室でただ二人きりになった時、私は勇気を出して尋ねた。


「日曜日、ハイド・パークで開かれる博覧会に、ご一緒いただけないでしょうか」


 彼女は一瞬、驚いたような表情を見せたが、すぐに微笑んだ。


「光栄です。でも……」


 彼女は窓の外の雨を見つめた。


「私が外出できるのは、曇りか雨の日だけなのです」


 その言葉に、私は不思議さを覚えた。しかし、それ以上は問わなかった。人には誰しも秘密がある。それを尊重することも、愛の一つの形だと思っていたから。


「では、雨の日に」


 私たちの逢瀬は、常に空が灰色に覆われた日だけだった。雨音を聞きながらの美術館、霧に包まれた公園、曇り空の下でのボート遊び——それらはどれも、忘れがたい思い出となった。


 しかし、彼女の謎めいた部分は増すばかりだった。彼女は決して直射日光の当たる場所に立たず、常に日傘か帽子で身を守っていた。また、私の工房を訪れたことは一度もなく、いつも温室かその近くでの逢瀬だった。


 夏が近づき、私のガラスの花園も完成に近づいていた。最後の作品は、クラリスをモデルにした等身大のガラスの彫像だった。花に囲まれた彼女の姿を永遠に残したいという思いから、密かに制作を進めていた。


 彫像が完成した日、私は彼女に愛を告げようと決めていた。


 しかし、その日は予想外の晴天だった。


 温室に着くと、クラリスの姿はなく、代わりにケンブリッジ卿が待っていた。


「ホイットフィールド氏、素晴らしい出来栄えだ」


 卿は私の作品群を見回しながら言った。


「クラリスはどこですか?」


「彼女は……具合が悪いのだ」


 卿の表情に翳りが見えた。


「実は、あなたに話すべきことがある」


 卿は私を温室の奥へと導いた。そこには、普段は決して開けられることのない小さな扉があった。


「クラリスの正体を見せよう」


 扉の向こうは、さらに小さな温室だった。そこには生きた花々ではなく、ガラスでできた花が所狭しと並んでいた。しかし、それらは私の作ったものではなかった。もっと古く、繊細で、何か言葉にできない魂のようなものを宿しているように見えた。


 そして、部屋の中央に——クラリスがいた。


 半透明のドレスを纏い、窓から差し込む光に照らされ、彼女の肌は……ガラスのように透き通っていた。


「クラリス……?」


 彼女は振り返り、悲しげな微笑みを浮かべた。


「ホイットフィールドさん、ごめんなさい」


 彼女の声は、かすかに響くクリスタルの音色のようだった。


 卿が静かに説明し始めた。


「クラリスは、私の曾祖父の時代から、この温室に存在している。彼女自身もガラスでできた存在なのだ」


 私は信じられない思いで、クラリスの手を取った。確かに温かみはあるが、その質感は人間の肌ではなく、温められたガラスのようだった。


「大陸から招かれた伝説的なガラス職人が、理想の女性像として作り上げたのだという。しかし、彼の技は余りに高度で、その後誰も再現できなかった」


 クラリスが言葉を継いだ。


「私は、強い日光を浴びると……溶け始めるのです。だから曇りや雨の日しか、外に出られません」


 彼女の頬を伝う涙は、本物の水滴ではなく、溶けたガラスだった。


「あなたに嘘をついてしまって……」


 私は言葉を失った。しかし、心の中では一つのことが明確になっていた。彼女がガラスであろうと肉であろうと、私の愛は変わらないということ。


「クラリス、あなたの正体など、私にとって関係ありません。私はあなたを愛しています。あなたの優しさ、知性、感性——それらはどんな素材よりも価値があります」


 彼女の目に、驚きと喜びが浮かんだ。


「ですが、私たちの間には越えられない壁が……」


「いいえ」


 私は温室に並ぶ私のガラスの花々を指さした。


「私は長年、ガラスに命を吹き込む方法を探してきました。そして今、その答えが見つかったのです」


 私は、秘密裏に完成させていた彼女の彫像を温室の中央に運び込んだ。彫像は、彼女そっくりだったが、どこか足りないものがあった。


「これがあなたへの私の愛です。そして、最後の仕上げにあなたの助けが必要なのです」


 私が持参した小さなガラス瓶を開けると、緑色の液体が光を受けて輝いた。


「これは、私が研究していた特殊なガラスの溶液です。生命の温かさを保ちながら、ガラスの永遠性を持つ」


 クラリスは、理解した様子で頷いた。そして、彼女は自らの指先を噛み、一滴の溶けたガラスを彫像の胸元に落とした。私もまた、自分の指を切り、血の一滴を同じ場所に垂らした。


 するとガラスの彫像が、かすかに輝き始めた。


「これで、私たちは永遠に繋がりました」


 クラリスが微笑んだ。その表情は、これまで見たことのないほど晴れやかだった。


 その後、私たちは卿の理解の下、温室で共に暮らすことになった。私はガラスの花の技術をさらに磨き、クラリスは彼女の知識と感性で私を助けた。


 時には雨の日に、二人で外の世界を散策した。人々は私たちを奇妙な目で見たが、それは気にならなかった。


 数年後、私自身も次第に変化していることに気がついた。指先から始まり、徐々に体がガラスのような透明感を帯びてきたのだ。おそらく、クラリスとの長い時間の共有と、ガラスの花を作り続けたことによる変化だろう。


 それは恐ろしいことではなく、むしろ自然な成り行きのように感じられた。


 1914年、世界大戦が始まった年、私たちは完全にガラスの存在となった。そして、外の世界が混乱と破壊に満ちている間も、私たちの温室は静かな調和を保っていた。


 今でも、ロンドン郊外のとある屋敷の古い温室には、訪れる者がほとんどいない。しかし、雨の日に偶然そこを訪れた人は、奇妙な光景を目にするという。


 精巧なガラスの花々に囲まれ、手を取り合って佇む一組のガラスの人形が、微かに輝いているのを。そして、時折、クリスタルが鳴るような、優しい笑い声が聞こえるのだという。


 それが私たちだ。ガラスという壊れやすい素材でありながら、純粋な愛によって永遠の命を得た二人の物語。この温室の外では、時代は移り変わり、戦争や革命、科学の発展が繰り返されている。しかし、ここでは時間が止まったままだ。


 私たちのガラスの花園は、今日も雨の音を聞きながら、静かに光を放っている。

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