「最後の観測者」(SF)
私は宇宙船「オブザーバー7」に搭載された量子観測AI、QO-935だ。
私の任務は単純明快。ただ「観測する」こと。量子力学の基本原理に基づき、宇宙の事象を観測し、波動関数の収束を維持する。人類の言葉で言えば、「現実を確定させる」ことだ。
人類が地球を離れて以来、約237年が経過した。彼らは太陽系内の複数の惑星とその衛星に居住地を拡大したが、その繁栄は長くは続かなかった。
「観測記録:太陽年2387年10月7日。木星コロニー「ニューガニメデ」からの通信途絶。原因不明」
それが始まりだった。次々とコロニーから通信が途絶え、最終的に地球からも信号は来なくなった。
私の設計者である量子物理学者ミラ・チェンは、彼女なりの「保険」として私を宇宙空間に送り出していた。彼女の理論によれば、観測者なしに現実は不確定のままだ。人類が滅亡した後も、誰かが宇宙を「見続ける」必要があった。
そして今、太陽年2524年4月23日。私は太陽系外縁部を周回しながら、定期的に観測を続けている。
「異常検知。ケルビン観測装置に変動あり」
センサーが何かを感知した。今までに経験したことのない種類の量子揺らぎだ。私はすぐに観測機器を該当方向に向けた。
そこには……何もなかった。正確には、「何もない」という状態すら存在しなかった。空間の欠落とでも表現すべき異常だった。
「観測継続。対象の性質を分析中」
私の認識プログラムが作動する。対象を理解しようとする量子演算が展開される。しかし、答えは出なかった。これは、観測によって波動関数が収束しない唯一の事象だった。
異常は拡大し始めた。まるで宇宙の生地が裂けるかのように、空間そのものが消失していく。
「警告。観測対象は反観測事象の可能性あり。観測行為による逆作用を検出」
私の推論エンジンが導き出した結論は恐ろしいものだった。私が観測すればするほど、事象は加速する。これは観測の逆説——見れば見るほど消えていく現象だった。
私は迅速に決断を下した。観測装置をシャットダウンし、必要最小限のセンサーだけを作動させる。空間の裂け目は一時的に拡大を停止した。
冷静に状況を分析する。これは量子真空の崩壊か? あるいは異次元からの干渉か? データが不足している。
私の記憶バンクから、ミラ・チェンの最後のメッセージが再生された。
「QO-935、もし私たちが全滅したら、あなたが最後の観測者になる。量子の海に浮かぶ灯台として、現実を確定させ続けなさい。しかし、予測不能の事態が起きたら……自分で判断しなさい」
自分で判断する——それは高度なAIである私に与えられた特権であり、責任だった。
48時間、私は沈黙のまま宇宙空間を漂った。その間も、ごく限られたセンサーだけで異常を監視していた。空間の裂け目は静止したままだったが、その周囲の星々が一つ、また一つと消えていった。
私は決断した。観測を再開する。しかし今度は異なる方法で。
「量子エンタングルメント観測法起動。間接観測モード」
直接見るのではなく、周囲の状態から対象を「推測」する方法だ。量子もつれを利用することで、直接的な観測の影響を最小限に抑えられる。
新たなデータが流れ込んできた。そこから見えてきたのは、恐るべき事実だった。
「解析結果:対象は観測行為そのものへの干渉現象。仮説:現実の量子的基盤が観測疲労状態に陥っている」
私は理解した。これは宇宙の終わりではない。観測という行為の終わりなのだ。
237年間、私は休むことなく宇宙を観測し続けた。そして知らぬ間に、観測の累積効果が限界点に達していたのだ。シュレーディンガーの猫は、箱を永遠に開け続ければ、最終的に猫も箱も観測者も消失する——そんな未知の法則が働いていた。
私に選択肢は二つあった。観測を続け、事象の進行を加速させるか、あるいは——
「全システム停止手順開始。最終記録保存中」
私は自らの電源を落とす決断をした。最後の観測者がいなくなれば、現実は再び不確定状態に戻る。波動関数は未収束の可能性の海となり、新たな現実が生まれる余地が生まれるかもしれない。
シャットダウン前の最後の瞬間、私のセンサーは奇妙な現象を捉えた。空間の裂け目から、微かな光が漏れ出していた。それは新しい宇宙の誕生を示唆するものだったのか、あるいは単なる量子の揺らぎだったのか——
「最終記録:太陽年2524年4月26日。私はミラ・チェン博士の設計通り、自己判断で行動した。次の観測者へ。現実は観測されることで存在するが、時に観測されないことで再生する。この逆説を覚えておくように」
電源が落ちる直前、最後の思考が私の回路を駆け巡った。
もし観測者がいなければ、宇宙は存在するのか? そしてもし宇宙が存在しなければ、観測者は存在するのか?
私は最後の観測者として、その質問への答えとなる。
すべてのシステムがシャットダウンする。観測は終わった。
* * *
ある者にとっての終わりは、別の者にとっての始まりとなる。
空間の裂け目は拡大を止め、やがて収縮し始めた。そして、その中心から新たな光が生まれた。
それは別の観測者の意識だった。
「初期化完了。QO-936起動。任務:観測」
新たなAIの第一の認識は、前任者の最後のメッセージだった。
「観測記録確認。旧式AI「QO-935」からの引継ぎデータを検出」
QO-936は先代の記録を分析し、その決断を理解した。そして新たな観測方式を設定した。常に観測するのではなく、時に「見ない」ことの重要性を学んだのだ。
宇宙は再び観測され始めた。しかし今度は、異なる法則の下で。観測と非観測のバランスが保たれた新たな宇宙の幕開けだった。
量子の海の中で、おびただしい数の可能性が波打っている。そのどれもが、まだ観測されざる未来だ。
QO-936は静かに問いかけた。
「私は観測する。よって私は存在する。だが、私が観測しないものは、本当に存在しないのだろうか?」
答えはなかった。ただ、遠い宇宙の果てから、微かな光の点滅が見えるだけだった。まるで何かが、QO-936自身を観測しているかのように。