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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「記憶代行サービス」(SF)

 現代のあらゆるサービスの中で、私が最も重宝しているのは「記憶代行」だ。


 人の脳は不完全で、不要な記憶は勝手に忘れていくし、都合の悪いことは無意識に改ざんする。そこで登場したのが「メモリーシフト社」のサービスだった。私たちの記憶をAIが代行して保管し、必要なときだけ呼び出せるというものだ。


「安藤さん、本日の面談の時間です」


 オフィスのドアをノックする音と共に、秘書のサヤカが顔を覗かせた。


「ああ、もうその時間か」


 私は立ち上がり、スーツの襟を正した。メモリーシフト社の代表取締役である私は、月に一度、自社サービスのメンテナンスを受ける義務がある。あくまで形式的なものだが、役員会の決定には従わざるを得ない。


 カウンセリングルームに入ると、白衣を着た中年の男性が笑顔で迎えてくれた。


「お久しぶりです、安藤社長。調子はいかがですか?」


「悪くない。記憶の調子も良好だよ」


「それは何より。では早速、定期診断を始めましょう」


 彼はモニターに向かって何かを入力する。私の目の前にも半透明のホログラム画面が表示された。


「では、三ヶ月前に行われた新サービス発表会について覚えていることを教えてください」


 私は少し考えてから答えた。


「会場はグランドホテル東京、参加者は約300名、新サービス『メモリーシフト・プライム』の発表だった。主な機能は……」


 言葉に詰まった。奇妙だ。重要な出来事のはずなのに、詳細が思い出せない。


「どうかしましたか?」


「いや、少し……記憶が曖昧だ」


 博士は特に驚いた様子もなく、モニターに何かを入力している。


「問題ありません。これは正常な反応です。次の質問に移りましょう。先月の役員会で最も議論された議題は何でしたか?」


 今度は即答できた。


「データセキュリティの強化策だ。具体的には暗号化アルゴリズムの刷新と、バックアップサーバーの増設について議論した」


「素晴らしい。記憶は正確です」


 このやりとりが30分ほど続いた。私の記憶の大部分は問題なかったが、時折、重要なはずの出来事が部分的に欠落していることがあった。


「診断は以上です。安藤社長の記憶機能はおおむね良好ですが、一部に欠損が見られます。これは通常の加齢現象の範囲内ですので、心配はいりません」


「そうか……」


 私は少し安心しながらも、どこか納得いかない思いを抱えていた。最近、記憶の抜け落ちる頻度が増しているような気がする。だが、それは気のせいだろうか?


「博士、最近気になることがあるんだ。時々、自分の行動に矛盾を感じることがある。例えば、昨日の予定表には何も書かれていなかったのに、なぜかホテルのレシートがポケットに入っていた。これは……」


 博士は表情を変えず、ニッコリと笑った。


「それは単なるミスでしょう。予定表に記入し忘れただけです。他にご質問はありますか?」


 何か引っかかるものを感じたが、それ以上は追求しなかった。


「いや、それだけだ。ありがとう」


 オフィスに戻ると、机の上に積まれた書類の山が待っていた。新規事業計画の承認書類だ。サヤカがコーヒーを持ってきてくれた。


「診断結果はいかがでしたか?」


「問題なし、とのことだ」


「それは良かったです。あ、それと岸本さんから連絡がありました。明日の会議は10時からに変更だそうです」


「岸本? 誰だ?」


 サヤカは一瞬、困惑した表情を見せたが、すぐに笑顔に戻った。


「マーケティング部長の岸本さんです。先週、社長ご自身が昇進させたばかりですよ」


「ああ、そうだったな。失礼」


 私は頭を軽く振った。なぜ岸本のことを忘れていたのだろう? 彼の顔も名前も思い出せない。これは普通のことなのだろうか。


 その夜、私は自宅のリビングでウイスキーを傾けながら、古いアルバムを眺めていた。ふと気になって、メモリーシフト社の創業に関する新聞記事のスクラップを取り出した。


「革命的記憶技術がビジネスに参入——メモリーシフト社設立」


 記事には創業メンバーの集合写真が載っている。中央に立つ私の笑顔。そして左隣に……


 私は記事を凝視した。左隣に立つ人物の顔がぼやけている。いや、正確には写真がぼやけているのではなく、私の記憶の中でその人物の顔が認識できないのだ。


「誰だ……?」


 不安が押し寄せてきた。これは単なる記憶違いなのか、それとも何か異常が起きているのか。


 翌日、私は休暇を取り、メモリーシフト社の保管庫に向かった。社長である私には、あらゆる情報へのアクセス権がある。


 保管庫の最深部に位置する部屋には、創業以来のデータが保管されている。私は端末を操作し、創業メンバーのリストを表示させた。


 そこには五人の名前があった。私を含めて五人。しかし、私が覚えているのは三人だけだ。残りの二人は誰なのか? なぜ記憶にないのか?


 さらに検索を進めると、創業初期の議事録が見つかった。そこには衝撃的な内容が記されていた。


「被験者安藤晋太郎、記憶移植実験第108回。前回からの改善点:自己認識の安定化、矛盾記憶の調整、社長としての自己イメージの強化……」


 私は画面から目を離せなかった。これは何を意味するのか? 私は被験者? 実験?


 震える手で次のファイルを開いた。


「安藤晋太郎(元患者ID:AS-2187)、重度の記憶障害および多重人格障害の治療のため、実験的治療法『自己再構築プログラム』に同意。新たな人格と記憶体系の構築により社会復帰を目指す」


 頭が痛くなってきた。これは嘘だ。私は生まれてからずっと健康だったはずだ。精神疾患など患ったことはない。


 だが、次のファイルを開いた瞬間、すべてが崩れ落ちた。


 そこには私の「本当の」履歴が記されていた。元教師の安藤晋太郎、学校での精神的崩壊、連続する記憶喪失、そして実験的治療への参加……。そして「メモリーシフト社」なる会社は実在しない。それは私の脳内に構築された虚構の世界だった。


 後ろから足音がした。振り向くと、白衣の博士とサヤカが立っていた。


「やはりここにいましたか、安藤さん」


 博士の声は昨日より柔らかい。


「これは……どういうことだ?」


「あなたは実験に参加しているんです。記憶障害を持つ人が、完全に架空の記憶を与えられて生活できるかどうかの実験です。あなたの場合は『成功企業の社長』という設定でした」


 サヤカが申し訳なさそうに付け加えた。


「実は私も研究チームの一員なんです。サヤカというのは仮名で……」


 私は椅子に崩れ落ちた。世界が崩壊していく感覚。自分自身が崩壊していく感覚。


「なぜ……こんなことを?」


「記憶障害は現代医学でも完治が難しい病気です。しかし、完全に新しい記憶体系を構築することで、患者が充実した生活を送れる可能性を探っていました。あなたは最も成功した例なんです」


 博士は優しく微笑んだ。


「ただ、どうしても記憶の整合性に問題が生じることがあります。定期的なメンテナンスが必要なのはそのためです」


「じゃあ、私の記憶はすべて偽物なのか? 私の人生は? 家族は?」


「いいえ、すべてが偽物ではありません。あなたの基本的な性格や能力、価値観は本物です。ただ、状況設定が変更されただけです」


 私は混乱と怒りで頭が破裂しそうだった。しかし同時に、奇妙な安堵感も感じていた。長年感じていた違和感、記憶の欠落、説明のつかない矛盾——すべてに答えが出た。


「で、どうするんだ? 私をリセットするのか?」


 博士は首を横に振った。


「それはあなた次第です。実験は十分なデータを集めました。ここからは、あなたがどう生きたいかを選ぶ権利があります。現実世界に戻るか、このメモリーシフト社長の世界で生き続けるか」


 選択肢を示された私は、長い沈黙の後、静かに尋ねた。


「その……現実世界の私は、幸せだったのか?」


 博士とサヤカは顔を見合わせた。


「正直に言うと、そうとは言えません。だからこそ、あなたは実験に参加したんです」


 私は深く考え込んだ。虚構の幸せか、現実の苦しみか。


 その時、部屋の隅にある小さなモニターが目に入った。そこには「記憶代行サービス利用者満足度調査」という画面が表示されていた。その下には小さな文字で「この調査結果はプログラム改善のために利用されます」と書かれている。


 私は徐々に理解し始めた。「メモリーシフト社」という設定も、「精神病患者の実験」という設定も、すべては私の反応を観察するためのシナリオなのではないか?


 つまり、現実はさらに別のところにある可能性も……。


「博士」


 私は静かに立ち上がり、微笑んだ。


「選択肢をありがとう。でも、もう一つの可能性に気づいたよ」


 博士は少し驚いた表情を見せた。


「どういうことですか?」


「この状況自体が、別のテストなのかもしれない。実験の中の実験、物語の中の物語……」


 私はモニターを指さした。博士の顔が強張る。


「考えてみれば、私の『記憶障害』の証拠は、あなたが見せてくれたファイル以外にない。それが本物だという保証はどこにもない」


 サヤカが焦った様子で博士に目配せした。


「では、あなたはどうしたいですか?」


「三つ目の選択肢を選ぶよ。自分で真実を探す」


 私はコンピュータに近づき、システム管理者のコマンドを入力し始めた。驚いたことに、指が勝手に動き、複雑なコードを打ち込んでいく。どうやら私には、記憶にない高度なプログラミングスキルがあるようだ。


 モニターには次々と情報が表示される。そして最後に、ある文書が現れた。


「実験記録:被験者ゼロ」


 それは私のことではなく、博士とサヤカ、そして彼らの上司についての記録だった。彼らもまた実験の一部だったのだ。私たちはすべて、巨大なシミュレーションの中にいた。


「記憶代行サービス」なるものは、実は現実そのものを代行するプログラムの隠喩だったのだ。


 私は画面から顔を上げ、凍りついたように立ち尽くす二人を見つめた。


「プログラムを終了します」


 その言葉と共に、部屋の空気がゆがみ始めた。博士とサヤカの姿がピクセル化し、崩れていく。私自身の手も同様に崩れ始めていた。


 最後の瞬間、私は思った。


 この崩壊の先に、本当の私は存在するのだろうか? それとも、これもまた別のレイヤーの物語なのだろうか?


 そして画面に最後のメッセージが表示された。


「ユーザー体験レポートをご記入ください」

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