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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「空の水槽」(ディストピアファンタジー)

 その水槽を見つけたのは、世界の終わりから三年後のことだった。


 私は倒壊した商業ビルの残骸を探索していた。食料や使えるものを見つけるために日々あちこちを歩き回るのが日課だった。かつて地下にスーパーがあったこのビルは、すでに多くの生存者たちに荒らされていたが、まだ見落としている場所があるかもしれないという希望を捨てきれずにいた。


「食料はともかく、水さえあれば」


 喉の渇きが私を苛んでいた。ペットボトルに残っていた水もあと少しだ。


 瓦礫を乗り越え、半分崩れた階段を慎重に下りていくと、薄暗い空間に辿り着いた。かつてペットショップだったらしい場所だ。棚は倒れ、商品は散乱し、動物たちの姿はもうない。


 そこで私は見つけた。壁際に置かれた大きな水槽を。


 不思議なことに、その水槽だけは完全に無傷だった。長方形のガラス水槽には、水も魚も入っていない。ただ底に少量の砂利が敷かれているだけの、空の水槽。


「使えるかも」


 私は水を貯めておく容器としてこの水槽を使えるのではないかと考えた。意外と重かったが、なんとか抱えて外に出た。


 自分の居場所としている廃アパートに戻ると、部屋の中央に水槽を置いた。夕日が差し込み、透明なガラスに橙色の光が反射する。それは奇妙なほど美しかった。


 疲れた体を横たえ、空の水槽を眺めながら眠りについた。


 夜中、奇妙な音で目が覚めた。


 微かな水の揺れる音。


 驚いて身を起こすと、月明かりの中、水槽に水が満ちているのが見えた。どこからともなく水が湧き出ているようだった。しかも、その中で何かが動いている。


 近づいて見ると、小さな魚が一匹、水槽の中を泳いでいた。赤と青のグラデーションが美しい熱帯魚だ。


「どこから……?」


 混乱しながらも、私はしばらくその光景を眺めていた。終末後の世界で見る、あまりにも場違いな生命の営み。それは不思議と心を落ち着かせた。


 翌朝、目を覚ますと水槽は元通り空になっていた。砂利だけが底に敷かれている。


「夢だったのか」


 水も魚も消え、何事もなかったかのように透明な箱が置かれているだけ。


 その日一日、私は水と食料を探して廃墟をさまよった。しかし、頭の片隅では常に昨夜の出来事が引っかかっていた。


 夜になり、再び眠りにつく。


 また同じ音で目が覚めた。


 水槽には水が満ちている。今度は魚が三匹に増えていた。青い魚、赤い魚、そして黄色い魚。緩やかな動きで水槽の中を泳ぎ回る姿に見入っていると、不思議と心が落ち着いた。


 三日目の夜、魚は五匹になっていた。

 四日目の夜、水草が生え始めていた。

 五日目の夜、小さなカニまで現れた。


 毎朝目覚めると水槽は空になり、夜になると生命で満ちる——この不思議な現象に、私は次第に心を奪われていった。


 日中の荒廃した現実世界より、夜の幻想的な水槽の世界の方が、私にとっては「現実」のように感じられるようになっていた。


 七日目の夜。


 目を覚ますと水槽はさらに賑やかになっていた。小さな熱帯魚たちに加え、カラフルなイソギンチャクや輝く珊瑚までもが水中に広がっていた。そして——水槽の向こう側に、人影があった。


 薄暗い月明かりの中、水槽の反対側から私を見つめる少女。十代半ばくらいだろうか、長い髪を揺らし、穏やかな笑みを浮かべている。


「誰……?」


 声をかけると、少女は口元に人差し指を当て、「しーっ」と静かにするよう促した。そして水槽に視線を戻すよう促す仕草をした。


 私が再び水槽を見ると、そこには一つの都市が広がっていた。小さな建物や道路、公園や学校——終末前の世界そのままの、ミニチュアの街。人々が歩き、車が走り、日常が息づいている。


 驚きのあまり言葉を失っていると、少女が小さな声で話し始めた。


「これが私の世界よ」


「あなたの……世界?」


「そう。世界が終わる前、私はこの水槽を持っていたの。毎晩眺めていたわ」


 少女はそう言って、水槽に手をかざした。すると魚たちが集まってきて、その指先を追いかけるように泳ぎ始めた。


「でも、大きな揺れがあった日、私は……」


 言葉を濁す少女。彼女の姿がやや透けて見えることに、この時初めて気がついた。


「あなたは、この水槽の……」


「私はもういないの。でも、水槽の中の世界は続いているわ。私が毎晩想像していた世界が」


 少女は微笑むと、水槽の中の小さな公園を指さした。ベンチに座る少女の姿があった。終末前の彼女自身だろうか。


「私はね、いつか大きな水族館を作りたかったの。でも、それは叶わなかった。だからせめて、この小さな水槽の中に、理想の世界を作っていたの」


 私は言葉もなく水槽を見つめていた。そこには終末前の世界の美しさと穏やかさが凝縮されていた。


「どうして私に?」


「あなたが見つけてくれたから。水槽は見つけてくれる人を待っていたの」


 少女はそう言うと、私に向かって手を差し伸べた。


「一緒に来る? この世界に」


 私は迷った。荒廃した現実と、水槽の中の理想郷。どちらが本当の幻なのか。


 しかし、決断する前に、遠くから物音がした。外から誰かが近づいてくる足音。おそらく他の生存者たちだ。


 慌てて窓の方を見た一瞬のすきに、少女の姿は消えていた。水槽も再び空になっている。


「待って!」


 声に出したが、返事はない。


 足音は次第に大きくなり、複数の人間が近づいてきているのが分かった。生存者たちとの遭遇は、時に命の危険を伴う。


 私は急いで貴重な水と食料をバックに詰め込み、逃げる準備をした。そして——水槽に手をかけた。


 重い。でも、これだけは置いていけない。


 背中に背負ったバックと、両手で抱えた水槽。そのまま裏口から外へ出た。


 月明かりの下、荒廃した街を一人歩く。抱えた水槽の中では、時折、水面が揺れる音が聞こえるような気がした。


 明日の夜、また水槽は命で満ちるだろう。そして少女も現れるかもしれない。


 その時、私は答えを告げよう。


 この終わりなき荒廃した世界で、新しい始まりを見つけるために。

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