「音のない朝に」(恋愛)
冬のパリは、思ったよりも静かだった。
バルコニーの向こう、灰色の空に、白い鳩がふわりと飛んでいる。
私はベッドの上で伸びをして、部屋の隅に目をやった。
テーブルの上には、昨日飲みかけのワイン。グラスの底には、深い赤の色が残っている。
そこに、彼女の姿はなかった。
◆
私と彼女が初めて会ったのは、東京のカフェだった。
フランスから帰ってきたばかりだと言う彼女は、ガラス越しの街を見つめながら、カフェ・オ・レを飲んでいた。
「パリは、時間がゆっくり流れるんだよ」
「本当に?」
「うん、信号も、人の歩く速度も、日本よりずっと遅いの」
彼女の話すフランス語は、波のように流れる音楽みたいだった。
彼女の指先は、カップの縁をなぞるように動いていた。
◆
その後、私たちは一緒にパリへ行った。
特に理由があったわけじゃない。
でも、私は知っていた。
彼女はどこか遠くへ行きたがっていたのだ。
◆
パリのホテルは、思ったよりも狭かった。
でも、朝の光は柔らかくて、カーテン越しに射し込む陽の光が、彼女の髪を金色に染めた。
「ねえ、あなたが好きな音楽、何?」
彼女は、ベッドに寝転びながら、そう聞いた。
「うーん……」
私は少し考えて、彼女に答えた。
「たぶん、静かな音楽」
「静かな音楽?」
「うん。何も起こらないみたいな音楽」
彼女は少し笑って、枕に顔をうずめた。
「なんだか、あなたっぽいね」
◆
朝、目が覚めると、彼女はいなかった。
私は部屋を見回した。
コートはなくなっていた。
彼女が昨夜まで読んでいた本が、ベッドの横に置かれている。
それだけが、彼女がここにいた証だった。
◆
私は、服を着て、靴を履いて、コートを羽織った。
外は、冬の冷たい空気。
カフェのテラスに座って、エスプレッソを頼む。
遠くで、誰かがバイオリンを弾いている。
そのメロディが、少しずつ風に消えていく。
私は、それをただ聞いていた。