「スローモーションの海」(SF:すこし不思議)
海の向こうから、音楽が聞こえてきた。
ゆったりとしたボサノバのメロディが、波のように空を漂っている。
ここは、港町の古い喫茶店。「モナ・リザ」という、誰がつけたのかわからない名前の店だ。
◆
私はアイスコーヒーを飲んでいた。
カラン、と氷が揺れる。
店の奥のスピーカーからは、古いジャズが流れている。
カウンターの向こうでは、マスターがポマードをつけた頭を光らせながら、新聞をめくっていた。
「今日は波がゆっくりですね」
そう話しかけてきたのは、隣の席に座っていた女だった。
薄いブルーのワンピース、丸いサングラス、そしてタバコをくゆらせる指先が妙に優雅だった。
「波が、ゆっくり?」
「ええ、スローモーションみたいに」
私は首をかしげながら、店の窓の外を見る。
確かに、波が妙にゆっくりと動いている。
押し寄せる波が、まるでフィルムの速度を落としたように、じわり、じわりと進み、静かに引いていく。
◆
「……変ですね」
「変じゃないですよ。こういう日もあるんです」
女は、細い手首をひねって、カップを口に運ぶ。
「たぶん、今日は時間の流れがちょっとだけ遅れてるんです」
私は考える。
そういえば、朝から何かが変だった。
目覚まし時計の針が、妙に重たそうに動いていた。
駅までの道も、歩く人々の足取りがどこかのんびりしていた。
風も、雲も、そして今ここにいる私自身も。
ゆるやかに、ゆるやかに、時間の隙間に沈んでいるような気がする。
◆
「もし、ずっとこのままだったらどうします?」
女はそう言って、灰皿の縁でタバコを軽く弾いた。
「このまま?」
「そう。時間が少しずつ遅くなって、最後には止まってしまうの」
「そんなこと、あるんですか?」
「あるかもしれませんね。海だって、少しずつ止まりかけてるでしょう?」
私は窓の外を見つめる。
確かに、さっきよりも波の動きが遅い。
じわり、じわりと押し寄せ、ゆっくりと引いていく。
次の波が来るまで、ずいぶん長い時間がかかる。
◆
マスターが、新聞をめくる手を止めた。
スピーカーの音が、少しだけゆっくりになった気がする。
ボサノバのリズムが、ねっとりとしたジャズに変わる。
氷が溶ける速度も、少しだけ遅くなった気がする。
「ねえ、どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるんですか?」
私は、女の顔をまじまじと見つめた。
女は、少しだけ微笑む。
「私は、この時間の流れの外にいるから」
「外?」
「そう。私は、スローモーションにならないんです」
◆
そのとき、店の外の海が、ぴたりと止まった。
波が、完全に凍りついたみたいに動かない。
空気も静かになり、喫茶店の時計の針が止まる。
氷が、グラスの中でピタリと静止した。
……私だけが、動ける。
そして、隣の女も。
◆
「さあ、どうします?」
女は穏やかに笑った。
「このまま、止まった時間の中に留まるか、それとも……」
「それとも?」
「時間の外へ、行くか」
◆
私は、コーヒーの最後の一口を飲み干した。
そして、立ち上がる。
窓の外では、海が静止したままだ。
「外へ行くと、どうなるんですか?」
「それは、行ってみないとわからないわ」
◆
私は、女の手を取った。
すると、周囲の世界が、ふっと暗くなる。
スピーカーの音が消え、マスターの姿も溶けて消える。
最後に見えたのは、凍った海の向こうに沈んでいく、スローモーションの太陽だった。