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「スローモーションの海」(SF:すこし不思議)

 海の向こうから、音楽が聞こえてきた。


 ゆったりとしたボサノバのメロディが、波のように空を漂っている。


 ここは、港町の古い喫茶店。「モナ・リザ」という、誰がつけたのかわからない名前の店だ。



 私はアイスコーヒーを飲んでいた。


 カラン、と氷が揺れる。


 店の奥のスピーカーからは、古いジャズが流れている。


 カウンターの向こうでは、マスターがポマードをつけた頭を光らせながら、新聞をめくっていた。


「今日は波がゆっくりですね」


 そう話しかけてきたのは、隣の席に座っていた女だった。


 薄いブルーのワンピース、丸いサングラス、そしてタバコをくゆらせる指先が妙に優雅だった。


「波が、ゆっくり?」


「ええ、スローモーションみたいに」


 私は首をかしげながら、店の窓の外を見る。


 確かに、波が妙にゆっくりと動いている。


 押し寄せる波が、まるでフィルムの速度を落としたように、じわり、じわりと進み、静かに引いていく。



「……変ですね」


「変じゃないですよ。こういう日もあるんです」


 女は、細い手首をひねって、カップを口に運ぶ。


「たぶん、今日は時間の流れがちょっとだけ遅れてるんです」


 私は考える。


 そういえば、朝から何かが変だった。


 目覚まし時計の針が、妙に重たそうに動いていた。


 駅までの道も、歩く人々の足取りがどこかのんびりしていた。


 風も、雲も、そして今ここにいる私自身も。


 ゆるやかに、ゆるやかに、時間の隙間に沈んでいるような気がする。



「もし、ずっとこのままだったらどうします?」


 女はそう言って、灰皿の縁でタバコを軽く弾いた。


「このまま?」


「そう。時間が少しずつ遅くなって、最後には止まってしまうの」


「そんなこと、あるんですか?」


「あるかもしれませんね。海だって、少しずつ止まりかけてるでしょう?」


 私は窓の外を見つめる。


 確かに、さっきよりも波の動きが遅い。


 じわり、じわりと押し寄せ、ゆっくりと引いていく。


 次の波が来るまで、ずいぶん長い時間がかかる。



 マスターが、新聞をめくる手を止めた。


 スピーカーの音が、少しだけゆっくりになった気がする。


 ボサノバのリズムが、ねっとりとしたジャズに変わる。


 氷が溶ける速度も、少しだけ遅くなった気がする。


「ねえ、どうしてあなたはそんなに落ち着いていられるんですか?」


 私は、女の顔をまじまじと見つめた。


 女は、少しだけ微笑む。


「私は、この時間の流れの外にいるから」


「外?」


「そう。私は、スローモーションにならないんです」



 そのとき、店の外の海が、ぴたりと止まった。


 波が、完全に凍りついたみたいに動かない。


 空気も静かになり、喫茶店の時計の針が止まる。


 氷が、グラスの中でピタリと静止した。


 ……私だけが、動ける。


 そして、隣の女も。



「さあ、どうします?」


 女は穏やかに笑った。


「このまま、止まった時間の中に留まるか、それとも……」


「それとも?」


「時間の外へ、行くか」



 私は、コーヒーの最後の一口を飲み干した。


 そして、立ち上がる。


 窓の外では、海が静止したままだ。


「外へ行くと、どうなるんですか?」


「それは、行ってみないとわからないわ」



 私は、女の手を取った。


 すると、周囲の世界が、ふっと暗くなる。


 スピーカーの音が消え、マスターの姿も溶けて消える。


 最後に見えたのは、凍った海の向こうに沈んでいく、スローモーションの太陽だった。


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