「言葉の届かない場所で」(不条理)
男は、ある日、言葉をなくした。
◆
最初に気づいたのは、朝のことだった。
妻に「おはよう」と言おうとしたが、声にならなかった。
喉に違和感はない。舌も問題なく動く。しかし、言葉が形を成さなかった。
妻は、何も気づいていないようだった。
◆
会社へ向かう電車の中で、男は試しに口を開いた。
「次の駅はどこですか?」
だが、発せられたのは、まったく意味を持たない音だった。
「あ、う……か」
隣に座っていた老人が、一瞬だけ男を見たが、すぐに目を逸らした。
誰も、異変に気づかない。
◆
会社につくと、同僚がいつも通りに話しかけてきた。
「昨日の会議、最悪だったな」
男は返事をしようとした。
だが、声にならない。
「……う、か」
それでも同僚は頷いた。
「だよな! あの上司、マジでどうかしてるよ」
まるで、男が普通に話したかのように、会話が成立している。
◆
昼休み、男はさらに奇妙なことに気づいた。
人々の会話が、すべて「音」としてしか聞こえなくなっていた。
意味が抜け落ち、ただの音の羅列になっていた。
**彼は、言葉の意味を失ったのではなく、世界が言葉の意味を失ったのだ。**
◆
それから何日経っても、状況は変わらなかった。
彼は、毎日会社へ行き、何かを話し、何かを聞いた。
だが、それはただの「音」だった。
それでも、社会は問題なく回っていた。
◆
ある日、男は試しに、まったく無意味な音を発してみた。
「ぬふぅ……くる?」
同僚は、頷いた。
「そうだよな。俺もそう思う」
男は、会社の会議でこう言ってみた。
「ずぅぅるん、ぱっ!」
上司は、「なるほど、その意見は重要だな」と答えた。
◆
世界は、言葉を失っても、変わらなかった。
男はその日、静かに理解した。
**言葉とは、ただの形式でしかなかったのだ。**
人々は、言葉を使っているようでいて、実は何も伝えていなかった。
ただ「音」を交換し合い、相手が発した音に適当な「意味」を当てはめているに過ぎなかった。
◆
それ以来、男は何も話さなくなった。
ただ、微笑み、頷き、適当な音を発するだけで、人間関係は以前と変わらずに続いていった。
――言葉なんて、最初から必要なかったのだ。