「水の底で眠る」(現代ファンタジー)
夏が終わるころ、私は彼女を見送った。
駅のホームで、最後に抱きしめたときの彼女の肌は、少しひんやりしていて、まるで朝方の川の水みたいだった。
「じゃあね」
電車のドアが閉まる。
彼女は小さく手を振って、そのまま光の向こうへと消えていった。
◆
彼女と出会ったのは、梅雨が明けたばかりのころだった。
家の近くの川べりで、彼女はしゃがみこんで水面をじっと見つめていた。
「何してるの?」
「金魚、いたんだよ」
彼女はそう言って、光を映した川の底を指さした。
「ほら、あそこ」
私には、何も見えなかった。
「……本当にいる?」
「うん」
彼女は確信を持って頷いた。
「たぶん、昔、誰かが放したんだよ」
彼女の声は、少しだけ寂しそうだった。
私はそのとき、なんとなく彼女に触れたくなった。
金魚が本当にいるのかどうかなんて、どうでもよかった。ただ、その透明な瞳で何かを見つめ続ける彼女が、どこか遠くに行ってしまう気がした。
◆
彼女は、いつも少しだけ向こう側にいる人だった。
よく遠くを見ていたし、話す言葉も、どこか夢みたいにふわふわしていた。
「ねえ、水の中に沈んでみたいって思ったことない?」
「え?」
「ぜんぶ、ふわっとしてさ。世界の音がなくなって、息ができなくなって、でも苦しいとかじゃなくて、ただ静かになっていくの」
私は答えなかった。
でも、そのとき、彼女がもうこの場所にいないような気がして、怖くなった。
◆
彼女は、夏の終わりに引っ越した。
「遠くへ行くの?」
「うん。でも、ずっと遠くじゃないよ」
彼女は笑って、「またね」と言った。
でも、私は知っていた。
きっと彼女はもう、私の世界にはいないのだ。
◆
秋になって、彼女がいた川へ行った。
水面をじっと見つめる。
金魚は、やっぱりいなかった。
でも、ひんやりとした風が吹いたとき、一瞬だけ、水の底に何か赤いものが揺れた気がした。
それが何だったのか、私は確かめないことにした。




