「歯の奥で鳴る音」(お仕事ヒューマンドラマ)
あの女の口の動きが、気になる。
正確に言うと、唇の形とか、舌の動きとかじゃなくて、噛みしめた奥歯が鳴る音。
会議のたびに、それを聞いてしまう。
くっ……かちっ……
小さく、でも確かに、歯が軋んでる。
◆
最初は気のせいかと思った。
でも、気づいたら私、その音を待ってるのよね。
いつ鳴るかな、いつ鳴るかなって、意識の片隅で構えてる。
で、鳴るのよ。
くっ……かちっ……
あの女が「そうですねえ」とか言いながら、作り笑顔を浮かべるとき。
あの女が「でも、前例がないんですよねえ」とか言って、無駄に引き伸ばすとき。
歯の奥で、微かに、くっと鳴らす。
◆
あの女――高田は、いわゆる「職場の女王」だ。
この会社は女が多い。課長も、部長も女。女同士の派閥もあるし、どうでもいいマウント合戦もある。
でも、高田は別格だ。
彼女は「誰とも敵対しない」ことに全力を注いでいる。
「私ってそういうの、ほんと向いてなくて~」
「まあまあ、みんなの意見、ちゃんと聞かないとね」
そう言いながら、常にどっちつかず。
それなのに、なぜか一番評価される。
上の男たちは「高田さんは調整能力がある」とか言うけど、ほんとバカじゃないの。
彼女がやってるのは、全方位に愛想を振りまいて、適当に流してるだけ。
それでも、誰よりも早く昇進する。
で、あの歯の音。
◆
ある日、ふと思った。
――もしかして、高田、めちゃくちゃストレス溜めてない?
彼女の笑顔は、歯の奥で軋む音を隠すためにあるんじゃないか。
だって、私たちが会議で適当にやり過ごしてるとき、高田はずっと何かを噛みしめてる。
くっ……かちっ……
考えてみれば、彼女はランチのときも、プレゼンのときも、どこでも微かに歯を鳴らしている。
その音に気づくのは、たぶん私だけ。
私だけが、高田の「ほんとうの声」を聞いてる。
◆
昼休み、高田がコーヒーを飲んでいるとき、私はふいに言った。
「歯、痛くない?」
彼女は、一瞬だけ固まった。
そして、ゆっくりとカップを置く。
「……どうして?」
「いや、いつも鳴ってるから」
高田の表情が、すっと凍る。
それから、何かを噛みしめるように、小さく笑った。
「気づいてたんだ」
◆
次の日から、高田は会社に来なくなった。
彼女は辞めた。
理由は、よくある「一身上の都合」。
みんな「あんなに順調だったのにね」なんて言っていたけど、私は知っている。
高田はずっと、ギリギリのところで歯を食いしばってたのだ。
くっ……かちっ……
あの音は、いつか彼女を壊す音だったのかもしれない。
◆
そして、私は今日も、誰かの歯の音を聞いている。