「階段を降りる」(不条理)
朝、駅のホームへ向かうために階段を降りていた。
何の変哲もない日常の一部だった。眠い目をこすりながら、足を一段ずつ運ぶ。コーヒーの香りが微かに漂い、スーツの男たちが急ぎ足で通り過ぎる。
だが、違和感に気づいたのは、十段目を降りたあたりだった。
降りても降りても、ホームに着かないのだ。
◆
最初は、ただぼんやりしているだけだと思った。寝不足のせいで、時間の感覚が狂っているのだろうと。
だが、十五段、二十段と降りても、変わらない。
同じ広告、同じ壁のシミ、同じ落書きが繰り返し現れる。
背後を振り返ると、階段の上は薄暗く、どこまでも遠く感じられた。
まるで、戻れない気がした。
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三十段目を降りたところで、見知らぬ男が立っていた。
スーツを着ているが、顔がぼやけている。いや、細部がわからないのだ。目があるのか、鼻があるのか、判然としない。
「……おはようございます」
男は静かにそう言った。
私は反射的に会釈した。
「あなたも、降りているのですか?」
「ええ」
男は軽く笑った。
「私も昔、ここを降り始めました。ずっと、降り続けています」
◆
六十段目を降りたところで、かすかに不安が芽生えた。
この階段は、どこへ続いているのだろう?
ホームではないことは確かだ。私は電車に乗るためにここを降りていたはずなのに、目的地を見失っていた。
後ろを振り返る。だが、そこにはもう入り口はなかった。
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百段目で、子どもとすれ違った。
ランドセルを背負い、楽しげに鼻歌を歌いながら降りていく。
「どこへ行くの?」
私が尋ねると、子どもは不思議そうに笑った。
「行きたいところへ」
◆
何段目まで降りたか、もうわからない。
途中で、立ち止まっていた老婆に声をかけた。
「この階段は、どこに続いているんですか?」
老婆はゆっくり首を振った。
「それを知っている人は、誰もいませんよ」
「終わりはあるんですか?」
「あなたが終わりにするときが、終わりです」
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私は歩みを止めた。
そういえば、なぜ降り続けなければならないのだろう?
誰が決めたのだろう?
駅へ向かうために降りていたはずが、いつの間にか「降りること」が目的になっていた。
この階段は――人生そのものなのでは?
◆
私は、そっと目を閉じた。
そして、一歩だけ、上がってみた。
すると、風の匂いが変わった。
次の一歩を踏み出したとき、目の前に駅のホームが広がっていた。
振り返ると、階段はどこにもなかった。




