「黒備えの武士」(時代劇)
夜の江戸は、静寂に包まれていた。
提灯の灯りがぼんやりと揺れ、石畳を濡らした雨が月光を反射する。しとどに濡れた木戸の前で、ひとりの侍が立ち尽くしていた。
黒漆塗りの甲冑に、深々と被った兜。
それは、かつて「黒備え」と呼ばれた戦国の武者の装いだった。
◆
「おかしなことがあるんです」
その日の昼下がり、北町奉行所の同心・松坂源四郎は、古馴染みの岡っ引き・新吉にそう告げられた。
「黒備えの武士が、夜な夜な江戸の町を歩いているんでさ」
「黒備え?」
「ええ。戦国の世ならいざ知らず、今は泰平の時代。そんな甲冑姿で出歩くなんざ、異様ってもんで」
「何か悪事を働いたのか?」
「いえ、妙なことに、誰も手出しを受けていない。ただ……」
「ただ?」
「目撃した者が、皆一様にこう言うんでさ。『あれは、死んだはずの武士だ』ってね」
◆
その夜、源四郎は町を巡回していた。
そして、件の黒備えの武士を見た。
路地裏に立つ姿は、まるでこの世の者ではないかのような威厳を漂わせている。
「そなた、何者だ?」
源四郎が声をかけると、武士はゆっくりと振り向いた。
その顔を見た瞬間、源四郎の全身に戦慄が走った。
「……まさか」
それは、二年前に死んだはずの男だった。
◆
「松平信綱――いや、そなたは確かに、二年前の御前試合で討たれたはず」
源四郎は動揺を抑えつつ、相手を見据えた。
「御前試合で敗れた者が、その後どうなるか、知っているか?」
武士の声は、湿った夜気に溶けるように響いた。
「知らぬはずがない。切腹を命じられたはずだ」
「左様。しかし、私は死ななかった」
「何?」
「私は、影武者だったのだ」
◆
松平信綱――江戸幕府の隠密として知られる彼は、数多くの戦を影から操った名将である。その名を継ぐ者は、たびたび影武者を用いると噂されていた。
「将軍家への忠義のために、私は死を演じた。しかし、主君はすでに亡き人。ならば私は、何のために生きている?」
武士は静かに刀を抜き、源四郎に向けた。
「……果たすべきは、最後の使命」
「何をする気だ?」
「幕府の闇を暴く」
◆
源四郎は、その瞬間すべてを悟った。
黒備えの武士は、幕府が闇に葬った者たちの怨念そのものだったのだ。
「貴殿が何を見たかは問わぬ。だが、これは忠義のためではない。もはや己の執念のためだ」
武士は微笑み、そして、夜闇へと消えていった。
翌朝、町のどこにも、黒備えの姿はなかった。
(終)