「雨のあとには」(ヒューマンドラマ)
雨が降っていた。
窓の向こうで、濡れたアスファルトが鈍く光る。電線にとまった雀が、身を震わせるたび、小さな雫がぽたりと落ちる。その雫を目で追いながら、由紀は黙ってコーヒーを飲んだ。
味はしなかった。
◆
夫が家を出てから、もう半年になる。
正式な離婚届にはまだ判を押していないが、戻ることはないだろうと彼女は思っていた。最後に交わした会話は、たしか天気の話だった。
「明日、雨が降るらしいよ」
「そうか」
それだけ。
彼がいなくなった部屋は妙に広く、すべてが無駄に思えた。二人分のカップ、二人分の椅子、二人分の影。
――片方が消えたら、もう片方はどうすればいいのだろう?
◆
雨が止んだ。
由紀はカップを置き、玄関に向かった。傘立てには、彼が置いていったままの黒い傘がある。ずっと捨てられずにいた。
意を決してそれを手に取り、そっと開いてみる。
すると、内側には無数の白い文字が書かれていた。
「……え?」
よく見ると、それは彼の筆跡だった。
文字は小さく、ところどころ滲んでいる。
**「もしもこれを見ているなら、」**
**「たぶん、君はまだ僕のことを考えているんだろう。」**
**「僕は、君が嫌いで出ていったわけじゃない。」**
由紀は息を呑んだ。
傘の中に、彼がいた。
◆
読んでいるうちに、涙が落ちた。
黒い布地の上に、雨粒のような跡ができる。
**「君のいない世界で、僕はちゃんと生きていけるのだろうか。」**
**「それでも、進むしかないと思った。」**
**「君も、進んでほしい。」**
由紀は、傘を閉じた。
そして、外に出た。
雨上がりの街は、どこまでも静かだった。
(終)