『鏡の向こう側』(サスペンスSF)
古道具屋で見つけた鏡は、どこか不思議な魅力を持っていた。真鍮の縁取りが施された楕円形の鏡。表面には細かな傷があるが、それが却って味わい深い。
私は骨董品の鑑定人として、様々な品物を見てきた。しかし、この鏡には説明のできない違和感があった。
鏡を手に入れてから、奇妙な現象が始まった。
最初は些細なことだった。鏡に映る自分の動きが、わずかに遅れて見える。まるで、映像が0.1秒ほど後からついてくるような感覚。
やがて、その遅れは大きくなっていった。
私は実験を始めた。ノートを取り、鏡に向かって様々な動作をする。すると、映る像の遅れは日に日に長くなっていることが分かった。
一週間目、遅れは1秒になった。
二週間目、3秒。
三週間目、10秒。
そして一ヶ月が経った頃、恐ろしいことが起きた。
鏡の中の私が、現実の私とは異なる動きを始めたのだ。
私が右手を上げると、鏡の中の私は左手を上げる。私が後ずさりすると、鏡の中の私は前に進む。
まるで、鏡の向こう側の世界が、独自の意思を持ち始めたかのようだった。
研究者としての好奇心が、恐怖心を上回る。私は詳細な記録を取り始めた。
鏡の製造年代を調べようとしたが、手がかりは見つからない。古道具屋の主人も、どこから入手したのか覚えていないと言う。
ある夜のこと。
私は机で眠り込んでしまった。目が覚めると、部屋は月明かりに照らされていた。
そして、鏡の前に立っている自分を見つけた。
しかし、私はまだ椅子に座っているはずだ。
鏡の中の私が、ゆっくりと振り返る。その表情には、私には見たことのない笑みが浮かんでいた。
「やっと会えましたね」
声が聞こえた。しかし、それは鏡の中からではなく、背後から。
振り返ると、そこには「私」が立っていた。
「あなたは誰……?」
「私はあなた。でも、違う世界線のあなた」
鏡の中の私は語り始めた。この鏡は、平行世界の狭間に存在する「窓」なのだと。そして、無数の「私」が、それぞれの世界で生きているのだと。
「でも、なぜ私の世界に?」
「あなたの世界の『私』が、研究の過程で消えてしまったから」
その瞬間、全てが繋がった。私の記憶の中の空白。説明のつかない既視感。そして、この鏡への執着。
私は本物の私ではなかったのだ。
鏡の向こうの世界から、無意識のうちにこちらの世界に入り込んでいた「もう一人の私」。そして今、また新しい「私」が現れた。
今では、私は確信している。
この鏡は、無限の可能性を持つ扉なのだと。
そして私たちは皆、鏡の向こう側を覗き込んでいる「観察者」であり、同時に「被観察者」なのだと。
今も机の上には、その鏡が置かれている。
そして私は、どちらの世界の「私」なのか、もう分からなくなってしまった。
ただ一つ確かなことは、鏡の中の「私」が、今もどこかで研究を続けているということ。
そして、また新しい「私」が、この物語を紡ぎ続けているということ。
あなたの部屋の鏡に映る姿は、本当にあなた自身なのでしょうか?
それとも……。