「私を忘れないで」(サスペンスヒューマンドラマ)
最初に違和感を覚えたのは、母の誕生日だった。
ケーキを持って実家を訪れた私を、母は少し困惑した表情で迎えた。
「あら、ケーキなんて珍しいわね。何かあったの?」
私は笑って答えた。
「お母さんの誕生日だからに決まってるじゃない」
母は一瞬、固まったように見えた。そして、それを誤魔化すように笑顔を作った。
「そうだったわね。すっかり忘れていたわ」
その日は何事もなく過ぎた。しかし、帰り際に父が私に囁いた。
「最近、お母さんの様子がおかしいんだ。同じことを何度も聞いてきたり、日付を間違えたり……」
父の言葉に、私の胸に不安が灯った。母は確かに年を取った。しかし、まだ六十代前半。認知症にしては早すぎるのではないだろうか。
それから一週間後、私は再び実家を訪れた。今度は父の日だった。父はプレゼントを喜んでくれたが、母の様子はさらにおかしくなっていた。
「また来てくれたのね」
母は私に向かってそう言った。その言い方が妙だった。まるで私が頻繁に顔を出さない人間であるかのような言い方……。
「先週も来たでしょ。母さんの誕生日に」
「そうだったかしら……」
母の目が泳いだ。その瞳の奥に、混乱と不安が渦巻いているように見えた。
帰り道、父から電話があった。
「今日、お母さんが怖いことを言ったんだ」
父の声は震えていた。
「『あの子は誰? どうして私たちの家に来るの?』って……お前のことを言ったんだ」
私は足を止めた。冷たい風が首筋を撫でた。
「病院に連れて行くよ。認知症の検査を」
検査結果は意外なものだった。母の脳に異常は見られなかった。認知機能も年齢相応。記憶力も問題ない。
「特定の人物だけを忘れる症状というのはあります」
医師はそう言った。
「しかし、それはとても珍しいケースです。もう少し様子を見ましょう」
その晩、私は実家に泊まることにした。夜中、トイレに立った時、キッチンで物音がするのに気付いた。覗くと、母が一人で立っていた。月明かりだけが彼女を照らしている。
「お母さん?」
母はゆっくりと振り返った。その顔には、見知らぬ人を見る時の警戒心が浮かんでいた。
「あなたは誰?」
母の声は冷たかった。
「私だよ、お母さんの娘」
母は首を横に振った。
「私に娘はいない」
その言葉は氷のように私の心を刺した。母は続けた。
「なぜあなたは私たちの家に入り込んだの? 何が目的?」
恐怖で動けなくなった私に、母は一歩近づいた。その手には包丁が握られていた。
「出ていきなさい。今すぐに」
その時、父が現れた。
「やめろ! 何をしているんだ!」
父は母の手から包丁を奪い取った。母は泣き崩れた。
「だって知らない人が家にいるのよ! 追い出して!」
父は母を抱きしめながら、私に目で合図をした。表に出てくれ、と。
外の冷たい空気が、頬を撫でた。父がトレーナーを羽織って出てきた。
「もう限界だ。明日、もう一度病院に行こう」
翌日、さらに詳しい検査が行われた。結果は変わらなかった。母の脳に異常はない。ただ、私という存在だけが、彼女の認識から抜け落ちているのだ。
医師は不思議そうに首を傾げた。
「こんなケースは初めてです。特定の人物だけを認識できないなんて……」
その言葉を聞きながら、私の中に奇妙な感覚が広がり始めた。それは恐怖でもあり、何かに気付きかけている感覚でもあった。
帰り道、父と二人きりになった時、私は思い切って尋ねた。
「父さん、私って本当にお母さんの娘?」
父の足が止まった。その背中が固まるのが見えた。
「何を言ってるんだ?」
その声にわずかな震えがあった。
「なぜお母さんは私だけを忘れるの? 何か、私が知らないことがあるの?」
父はゆっくりとベンチに腰を下ろした。疲れ果てた表情で、遠くを見つめた。
「話すべきじゃないと思っていた……」
父の声は途切れがちだった。
「お前が十歳の時……お母さんは交通事故で亡くなったんだ」
私は言葉を失った。頭の中で何かが崩れていくような感覚があった。
「何を言ってるの? お母さんは生きてるじゃない」
「あれは……」
父は言葉を選ぶように間を置いた。
「あの人は、お母さんの双子の妹だ。事故の後、お前があまりにも立ち直れなかったから……妹さんが姉……つまりお前のお母さんの代わりになることを提案してくれたんだ」
世界がぎしぎしと音を立てて回り始めた。
視界が歪む。
息が苦しい。
「嘘……そんな……」
「最初は上手くいっていた。お前はそれを受け入れて、少しずつ元気になった。彼女も本当の母親のように振る舞ってくれた……」
父の言葉が遠くなっていく。代わりに、断片的な記憶が蘇り始めた。病院のベッド。大人たちの囁き声。そして「これからは私がお母さんのふりをするから」という聞き間違いかと思った言葉。
「でも、年を取るにつれて……彼女の中で何かが壊れ始めたんだ。時々、自分が誰なのか混乱するようになった。そして、この嘘に加担していることへの罪悪感が……」
父の声が震えていた。
「お前を忘れることで、彼女は自分の罪から逃れようとしているのかもしれない」
私の頬を涙が伝った。二十年以上にわたる嘘。そして、私はそれを受け入れ、信じていた。
それから数日後、母――いや、叔母は突然、私を認識するようになった。しかし、それは娘としてではなく、姪としてだった。
「久しぶりね、あなた。お姉ちゃんにそっくりだわ」
彼女の目には、長年の罪悪感から解放された安堵の色が浮かんでいた。
私は彼女の手を取った。
「ありがとう。私のお母さんになってくれて」
彼女の目に涙が浮かんだ。それは罪の涙ではなく、許しへの感謝の涙だった。
その日から、私たちは新しい関係を築き始めた。
真実に基づいた新たな関係を。
それは時に痛みを伴うものだったが、嘘の上に築かれた幸せより、ずっと確かなものだった。
そして時々、本当の母の写真を見ながら、私は思う。母は本当に死んだのだろうか? それとも、私たち全員の記憶が操作されているのではないか? 真実とは何なのだろうか?
それは時に、私たちが単に信じたいと思っているだけのものなのかもしれない。




