「雨音の囁き」(恋愛ホラー)
雨が降り始めたのは、あの日の午後三時十七分だった。私はそれを正確に覚えている。なぜなら、その瞬間から全てが変わってしまったからだ。
私の名前は城田明。
ごく普通のサラリーマンで、ごく普通のアパートに住み、ごく普通の生活を送っていた。
唯一の特徴といえば、雨の音を聴くのが好きだということくらいだろうか。窓を叩く雨音、屋根を打つ雨音、排水溝に流れる雨音。私はそれらを「雨の交響曲」と名付け、雨の日には窓辺で目を閉じて聴き入るのが私の習慣だった。
あの日も同じように、私は窓際の椅子に座り、降り始めた雨の音に耳を傾けていた。最初はほんの小雨だった。ポツ、ポツと窓ガラスを叩く穏やかな音。しかし、徐々に雨脚が強まり、その音色も変化していった。
そして、それが聞こえた。
「助けて……」
雨音の中に、かすかに混じった人の声。私は目を開け、窓の外を見た。しかし、そこには誰もいない。ただ雨が降り注ぐ風景があるだけだった。
「気のせいか」
そう思って再び目を閉じた。すると――
「ここにいるの……助けて……」
今度ははっきりと聞こえた。女性の声だった。若い、しかし疲れ切ったような声。その声は確かに雨音の中から聞こえてきていた。まるで雨滴一つ一つが言葉を運んでくるかのように。
「誰だ?」
私は声に応えた。しかし返事はない。代わりに、雨音がより一層激しくなった。窓を打つ音が、まるで誰かが必死に窓を叩いているように聞こえ始めた。私は恐る恐る窓に近づき、雨に濡れたガラス越しに外を見た。
そこには何もなかった。いや、正確には――雨の形が奇妙だった。窓を伝う雨粒が、まるで人の指のように窓をなぞっているように見えた。
私は震える手で窓を開けた。冷たい雨が顔に吹きつける。しかし、その冷たさの中に、温かいものが混じっていた。まるで、生きた体温のように。
「誰なんだ?」
私は雨に向かって問いかけた。すると、風の中で囁くような声が聞こえた。
「私の名前は、雫……七年前に、ここで……」
声は途切れがちだった。まるで遠い場所から届くラジオの電波のように。
「七年前? ここで何があったんだ?」
私は急に思い出した。
このアパートに引っ越してきたのは六年前。その前に、このアパートで若い女性が自殺したという話を不動産屋から聞いていた。窓から身を投げたという……この窓から。
「あなたが……」
雨の音が突然変わった。より激しく、より痛々しく窓を打ちつける音に。そして、雨の中に人の形が見え始めた。透明な水でできた輪郭。若い女性の姿だった。
「私を忘れないで……」
彼女――雫という名の雨の幽霊は、悲しげに言った。
「忘れないで……? でも、そもそも僕はあなたを知らない」
私は困惑して答えた。
するとその瞬間、雨の音が静かになった。雫の姿もぼんやりとしてきた。
「そう……」
彼女の声は遠ざかっていった。
翌日、私は管理人を捕まえて七年前の事件について尋ねた。
「ああ、確かに若い女性が亡くなられましたよ。でも自殺じゃありません。事故です。雨の日に窓の修理をしていて転落したんです」
「彼女の名前は?」
「確か……田中さんだったかな。いや、違った。山田……いや……」
管理人は首を傾げた。
「すみません、思い出せないや。でも、確か美術の先生だったとか」
その日から、私は雨の日になると窓辺に座り、雫を待つようになった。しかし、彼女は現れなかった。
雨はただの雨に戻ってしまった。
一ヶ月後、私はアパートの地下室で古い段ボール箱を見つけた。前の住人の残していったものだった。好奇心から、私はそれを開けてみた。中には古いスケッチブックがあった。表紙に「雫」と名前が書かれていた。
ページをめくると、そこには様々な雨の絵が描かれていた。窓を打つ雨、屋根を流れる雨、水たまりに落ちる雨……どれも繊細なタッチで、雨の一滴一滴が命を持っているかのように描かれていた。
最後のページには、このアパートの窓から見た風景のスケッチがあった。その絵の中には、窓辺に座る人影があった。そして驚くべきことに、その人影は――私だった。
裏面には小さな文字で日付が書かれていた。八年前の日付。私がこのアパートに引っ越す一年前。そしてメモ書きがあった。
「窓辺の人。いつか会えますように」
私は震える手でスケッチブックを閉じた。そして、雨が降り始めるのを待った。
三日後、雨が降った。私は窓辺に座り、スケッチブックを膝の上に置いた。雨が窓を叩き始める。やがて、その音の中に声が混じり始めた。
「見つけてくれたのね……」
雫の声だった。今度ははっきりと聞こえる。
「あなたは……僕を知っていたの?」
私は尋ねた。雨の中に再び人の形が現れ始める。
「私はいつも、雨の日にこの窓からあなたを見ていたの」
確かに僕が前住んでいたアパートの窓はここから今も見える。
「あなたはいつもその窓辺に座っていた。同じように雨を聴いていた。私、あなたに興味を持ったの」
雫の声は、雨の音と一体になりながら続いた。
「でも、話しかける勇気がなくて。だから絵を描いていたの。いつか渡そうと思って」
そして事故が起きた。彼女は雨の日に窓の外に出て、向かいのアパートを――僕を――見ようとして転落したのだ。
「雫さん……」
私は絞り出すように言った。雨の中の彼女の姿がより鮮明になる。透明な水滴でできた体が、光を屈折させて虹色に輝いていた。
「私、あなたの名前を知らないまま死んでしまった。だから、雨に生まれ変わって探していたの」
雫は微笑んだ。雨粒がガラスを伝い、まるで涙のように見えた。
「城田明です」
私は自己紹介した。なんと奇妙な初対面だろう。生者と死者の、雨を通じた対話。
「明さん……素敵な名前」
雫の声は穏やかになった。彼女の姿は雨の中にとけ始めていた。
「もう行かなくちゃ。でも、また会えるわ。雨の日に」
そう言って、雫は完全に雨となって空へと帰っていった。
それから、私は雨の日が来るのを待つようになった。天気予報をチェックし、低気圧が近づくと胸が高鳴った。そして雨が降ると、窓辺に座り、彼女の訪れを待つ。
時には彼女は現れず、ただの雨音だけが聞こえることもある。しかし時々、雨の中に彼女の声が混じり、彼女の姿が見える。そんな時、私たちは雨音の中で言葉を交わす。生と死の境界を超えた、不思議な友情――いや、もしかしたら淡い恋のようなもの。
人々は私を奇妙な男だと思っているだろう。雨の日に窓を開け、雨に向かって話しかけている男を。でも、私には分かっている。雨の中に彼女がいることを。
今日も雨が降っている。窓の外では、雫が私を待っている。
「こんにちは、雫さん。今日はどんな話をしようか」
窓を開けると、冷たくて温かい雨が私の顔を優しく撫でた。