「永遠の庭師」(現代ファンタジー)
私が花屋「エデン」で働き始めたのは、ちょうど桜の散り始める頃だった。店主の老人――村人たちは彼を「永遠の庭師」と呼んでいた――は、いつも同じ緑色の作業着を着て、鉢植えの間を静かに行き来していた。彼の指先から溢れる生命力は魔法のようだった。枯れかけた花も、彼の手にかかれば翌日には鮮やかな色を取り戻すのだ。
「植物には魂がある」
老人はよくそう言っていた。その声は乾いた大地に染み入る雨のように、静かでありながら確かな存在感を持っていた。
「だから僕たちは対話できるんだよ」
最初、私はそれを年寄りの戯言だと思っていた。しかし、彼の手入れを受けた植物たちの生命力は、明らかに常識を超えていた。真冬に咲く桜、真夏に輝く紅葉、四季を無視して次々と花を咲かせるチューリップ。彼の温室は、自然の法則から解放された楽園のようだった。
ある日、老人は私に小さな種を一つ渡した。
「これは特別な種だ。君だけに任せよう」
その種は、見たこともない形をしていた。真珠のような白さと、ダイヤモンドのような硬さ。そして、わずかに脈打つような温かさを持っていた。
「毎日、君の言葉をかけて育ててごらん。思いを込めて」
私は半信半疑ながらも、その種を特別な鉢に植えた。そして毎日、水をやりながら話しかけた。自分の日常のこと、夢のこと、時には悩みさえも。
一週間が過ぎ、芽が出た。通常の芽とは明らかに違っていた。それは透明な水晶のような質感を持ち、中を流れる緑の生命力が見えるようだった。さらに一週間、その芽は私の身長ほどまで伸び、不思議な光を放ち始めた。
そして一ヶ月後、花が咲いた。
それは言葉を失うほど美しかった。花弁は虹色に輝き、風もないのに絶えず揺れ動いていた。そして、最も驚くべきことに、その花は音を奏でていた。かすかな、しかし確かにメロディを持った音楽が、花から流れていたのだ。
「よく育ったね」
老人は微笑んだ。その表情には、どこか懐かしさと悲しみが混ざっていた。
「この花は『記憶の花』と呼ばれている。育てた人の記憶と感情を映し出すんだ」
私は息を呑んだ。確かに、その花の奏でるメロディは、幼い頃に母が歌ってくれた子守歌に似ていた。そして花の香りは、忘れていた故郷の草原の匂いそのものだった。
「でも……どうして私にこんな貴重な種を?」
老人はゆっくりと目を閉じた。
「私の時間はもう長くない。この花屋を託せる人を探していたんだ」
その言葉に、私は胸が締め付けられる思いがした。確かに最近、老人の姿はより一層透明感を増し、時折、その輪郭がぼやけて見えることがあった。
「でも、あなたがいなくなったら、この不思議な植物たちは……」
「大丈夫」
老人は優しく微笑んだ。
「君はもう、私と同じように植物と話せるようになっている」
私は驚いて周囲の植物たちを見回した。確かに、今まで気づかなかった変化があった。葉の揺れる音が言葉のように聞こえる。花の香りが感情を伝えてくる。根の伸びる音が生命の鼓動のように感じられる。いつの間にか、私も植物の言葉を理解し始めていたのだ。
その日から、老人は私に多くのことを教えてくれた。植物との対話の仕方、季節を超えて花を咲かせる秘訣、そして最も大切な――植物の「終わり」と向き合う方法。
「全ての植物には寿命がある。でも、それは本当の終わりではない」
老人はそう言いながら、枯れた花を土に返した。
「見ていてごらん」
土に還った花の場所から、新たな芽が出始めた。枯れた花とは全く別種の、新しい命だ。
「生命は形を変えて続いていく。それが自然の循環だ」
翌週、老人の姿はさらに透明になっていた。彼が店内を歩くと、その足跡に小さな芽が生まれた。彼の吐く息は花の香りを帯び、彼の汗は朝露のように植物を潤した。
「もうすぐだね」
老人は静かに言った。私は言葉もなく、ただ頷いた。
その晩、老人は温室の中央に立ち、月光を浴びていた。彼の体は次第に輝き始め、その光は周囲の植物たちに吸収されていった。最後に彼は私に微笑みかけ、そして――消えた。
翌朝、老人がいた場所には、見たこともない木が芽生えていた。それはまるで銀色の葉を持ち、幹は水晶のように透明で、中を流れる生命力が見えた。
私は呆然と立ち尽くしていたが、不思議なことに悲しみはなかった。むしろ、静かな納得と安らぎを感じていた。それは老人――いや、今は「永遠の木」となった彼が、私に送るメッセージのようだった。
それから数年、花屋「エデン」は私が引き継いで続けていた。老人から学んだ技術で、私も植物と対話し、季節外れの花を咲かせるようになった。村人たちは今度は私を「永遠の庭師」と呼ぶようになった。
そして時々、私は店の奥の温室で、あの銀色の木に語りかける。すると木は葉を揺らし、かすかな音楽を奏でる。それは老人の声に似ている。
「いずれ私も……」
そう思うと不思議と怖くはなかった。いつか私も土に還り、新たな命となる。そして別の「永遠の庭師」が現れ、この循環は続いていく。
今日も新しい見習いが店にやってきた。緊張した面持ちの若者だ。桜が散り始める季節――老人が私を迎えた、あの日と同じ季節に。
「植物には魂がある」
私は若者に語りかけ、小さな真珠のような種を一つ、彼の手のひらに乗せた。
「だから僕たちは対話できるんだよ」




