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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「鏡の中の香り」(サスペンス)

 夕暮れの街角に、古びた骨董店が佇んでいた。茜は放課後にその店の前を通るのが日課だった。ガラス窓越しに見える古い鏡やランプ、色褪せた人形たち。それらが放つ、どこか甘美で危険な空気に、茜はいつも心を奪われていた。


 ある日、意を決して店に入った。扉の鈴がチリンと鳴り、埃っぽい空気が鼻をついた。中は薄暗く、棚には奇妙な品々が並んでいる。店の奥から、若い男が現れた。黒いシャツに銀のネックレス、二十歳そこそこの見た目。瞳が深い紫色で、茜の視線を絡め取るようだった。


「いらっしゃい。珍しいね、こんな時間に客が来るなんて」


 声は低く、濃い蜜のように滑らかだ。茜は少し気圧されながらも、口を開いた。


「あの……ただ見に来ただけです」

「そうかい。なら、好きなだけ見ておいで。もし気に入ったものがあれば、教えてくれ」


 男は微笑み、奥へ引っ込んだ。茜は店内を歩き回り、ふと大きな鏡の前に立ち止まった。金縁のフレームに、細かな彫刻が施されている。反射した自分の姿が、いつもより色鮮やかに見えた。

 次の日、茜はまた店を訪れた。鏡が頭から離れなかったのだ。男は昨日と同じ場所にいて、同じように微笑んだ。


「また会えたね。昨日、あの鏡が気になったみたいだね」

「え……どうしてわかるんですか?」

「長年この商売をやっているとね……。それに君の目がそう言ってたよ。触ってみるかい?」


 男が鏡に手を差し出すと、茜は吸い寄せられるように近づいた。指先で鏡をなぞると、冷たいはずの表面がほのかに温かく、かすかな花の香りが漂ってきた。ジャスミンだろうか、それとも何かもっと甘いものか。


「この鏡、特別なんだ。触れるたびに、君の中の隠れた何かを映すよ」

「隠れた何か……?」

「欲望とか、秘密とかね。見てみるかい?」


 男の声に誘われ、茜は鏡を覗き込んだ。すると、自分の姿が揺れ、背景に薄暗い部屋が浮かんだ。そこには茜と、もう一人の影。輪郭がぼやけているが、確かに誰かがいる。茜の胸が締め付けられるように疼いた。

 それから毎夕、茜は店に通った。鏡に映る影は日ごとに鮮明になり、やがて男の姿だとわかった。紫の瞳、黒いシャツ。店の彼その人だ。鏡の中の彼は、茜に囁き、手を差し伸べてくる。


「こっちへおいで。君を待ってる」


 声は現実の彼と同じなのに、もっと深く、もっと甘い。茜は鏡に手を伸ばし、そのたびに香りが強くなった。現実と夢の境界が曖昧になり、彼女の心は鏡の中へ引き込まれていくようだった。

 ある夜、茜は決意した。鏡に触れ、目を閉じる。すると、体が軽くなり、ふわりと何かに包まれた感覚がした。目を開けると、そこは鏡の中の世界だった。薄暗い部屋、赤い絨毯、窓から漏れる月光。そして、彼が立っている。


「ようやく会えた。君が僕を呼んだんだね」

「あなたは……誰?」

「君が望んだものさ。名前はないよ。ただ、君のそばにいるためにここにいる」


 彼が近づき、茜の髪に触れる。指先が冷たくて、なのに熱い。ジャスミンの香りが濃厚に漂い、茜の頭をクラクラさせた。


「ここにいれば、君は自由だ。現実の退屈さから逃げられるよ」


 その言葉に、茜の心が揺れた。学校での単調な日々、友達との表面的な会話、将来への不安。それらから解放されるなら、この甘い夢に溺れてもいいかもしれない。

 だが、次の瞬間、鏡の縁が軋む音がした。現実の店に戻ると、男がこちらを見ていた。紫の瞳が鋭く光り、初めて見る表情――焦りだ。


「戻ってきたのか。惜しいね、もう少しで君は僕のものだったのに」

「えっ!?  いったいどういう意味?」

「鏡は君の心を映すだけじゃない。君を閉じ込める檻でもあるんだ。もう一度触れば、今度こそ戻れないよ」


 茜は息を呑み、鏡を見た。確かに、そこには彼女の姿と、彼の影が絡み合っている。蠱惑的な笑みを浮かべた彼が、手を差し伸べている。香りがまた漂い、茜の足を店に縛りつけようとする。


「逃げな。でないと、君は永遠にここで僕と踊ることになる」


 男の声が現実と鏡から同時に響き、茜は後ずさった。心が引き裂かれるように疼きながら、彼女は店の扉を押し開け、外へ飛び出した。冷たい夜風が香りを吹き飛ばし、茜を現実に引き戻した。


 それから、茜は骨董店の前を通らなくなった。でも、時折、ジャスミンの香りが風に混じる気がして、心がざわつく。鏡の中の彼がまだ待っているような、そんな予感が消えなかった。


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