「霧の向こうの声」(サスペンス)
霧が町を覆っていた。白く濁った空気が、家の輪郭をぼかし、道を隠した。私は窓辺に立ち、外を見つめた。いつもなら見えるはずの丘が、今日は影すらなかった。
「まただ」
つぶやきが口をついて出た。毎朝、この霧が現れる。そして、どこからか声が聞こえるのだ。低い、かすれた声。私の名前を呼ぶ。
最初は風の音だと思った。だが、日を追うごとにその声ははっきりしてきた。「ミナ、こっちへおいで」と。昨日は我慢できず、外に出てみた。でも、霧の中を歩いても何も見つからなかった。ただ、冷たい空気が肌を刺し、心臓が早鐘を打っただけだ。
今日は違う。私は決めた。もう逃げない。この声の正体を知るんだ。真実を突き止めなければ、こんな日々が続くだけだ。
コートを羽織り、ドアを開けた。霧が室内に流れ込み、足元を包んだ。外に出ると、視界は数メートル先までしか届かなかった。私は深呼吸して、一歩踏み出した。
「ミナ……こっちだよ」
声が右から聞こえた。私はそちらへ進んだ。足音が湿った地面に吸い込まれ、静寂が耳に響く。
どれくらい歩いただろう。突然、霧が薄れ、目の前に古い井戸が現れた。苔むした石が積み重なり、蓋もない。私は近づいて中を覗いた。真っ暗で、底が見えない。
「そこじゃないよ……もっと奥へ」
声は井戸の向こうからだった。私は井戸を迂回し、さらに進んだ。すると、今度は小さな小屋が現れた。木の表面は腐りかけ、窓は割れていた。私は恐る恐るドアに手をかけ、押し開けた。
中は意外にも暖かかった。中央に置かれたテーブルに、古いランプが灯っている。壁には埃をかぶった絵が掛かっていた。絵には、少女が描かれていた。金髪で、青い目。私にそっくりだ。
「やっと会えたね、ミナ」
声が背後から聞こえた。私は振り返った。そこには誰もいない。でも、霧が部屋に流れ込み、人の形を作り始めた。
「誰!? 何!?」
私は叫んだ。心臓が喉まで跳ね上がった。霧の形は少女になり、絵と同じ顔で私を見た。
「私はお前だよ。昔のお前」
その言葉に、私は凍りついた。
「昔の私? 何!? 意味が分からないよ!」
少女は静かに微笑んだ。
「覚えててくれると嬉しいな。あの日のこと。井戸に落ちた日のこと」
頭の中で何かが閃いた。記憶の断片が蘇る。小さい頃、友達と森で遊んでいて、井戸に近づいた。ふざけて覗き込んだら、足を滑らせて……。
「死んだはずだよ、私。あの時、井戸の中で」
少女が言った。私は首を振った。
「違うよ! 私は生きてる。ここにいる!」
少女は首をかしげた。
「本当に? なら、なぜ霧が毎日来るの? なぜ私の声が聞こえるの?」
私は言葉に詰まった。確かに、霧が来るようになってから、町の人は私を避けるようになった。声をかけても反応しない。まるで、私が見えていないかのように。
「まさか……」
つぶやきが漏れた。少女が近づいてきた。
「お前は私を探してるんだよ。真実を。自分が何者かを知るために」
私は後ずさった。足が震えた。
「そんなわけないよ! 私は私だ! ミナだよ!」
少女は悲しげに目を伏せた。
「なら、井戸に戻って確かめてみて。そこに真実があるよ」
私は小屋を飛び出した。霧が再び濃くなり、視界を奪った。でも、井戸の場所は覚えていた。私は走った。息が上がり、汗が額を伝った。やっと井戸に着くと、私は再び中を覗いた。
何かが見えた。暗闇の底に、白いものが浮かんでいる。服だ。私の服に似た、小さなドレス。そして、その横に……骨。
「うそ……?」
声が震えた。私は井戸の縁を掴んだ。頭がぐらぐらした。
「ミナ、こっちだよ」
声が井戸の中から響いた。私は目を閉じた。何も見たくなかった。でも、耳を塞いでも声は止まらない。
どれくらい時間が経っただろう。私は井戸から離れ、地面に座り込んだ。霧が私の周りを包み、冷たく撫でた。
少しずつ、気づきが広がった。私は死んでいたのかもしれない。あの日、井戸に落ちて。それでも、生きていると思い込んでいた。町を歩き、霧を見ていた。だけど、真実はあそこにあった。井戸の底に。
でも、なぜ今まで気づかなかったんだろう。なぜ、こんな形で自分と向き合うことになったんだろう。
私は立ち上がった。恐れがまだ胸にあったけど、もう逃げたくなかった。井戸に戻り、もう一度覗いた。今度は、骨が静かに私を見上げている気がした。
「ミナ……ありがとう」
声が柔らかく響いた。私は微笑んだ。
「うん、私もありがとう」
霧が薄れ始めた。井戸が遠ざかり、視界が開けた。私は歩き出した。どこへ行くのか分からない。でも、もう怖くなかった。
町はまだ霧に包まれていた。でも、私にはそれが心地よかった。真実を知った私は、もう過去に縛られていない。未来がどうなるのか分からないけど、それでいいと思った。




