『最後のホイッスル』(スポーツヒューマンドラマ)
高校サッカーの審判を20年続けてきた私は、その日、重大な決断を迫られていた。
県大会決勝。私は主審を務めていた。試合開始から80分が経過し、スコアは2-2。両チームとも、決勝戦に相応しい素晴らしい試合を展開していた。
「主審! あれはファウルでしょう!」
北高校の監督が叫ぶ。確かに、ペナルティエリア内での接触プレーがあった。しかし、私の目には、それは意図的な反則ではなく、正当な競り合いに見えた。
ホイッスルを吹かない私に、北高校のベンチが騒然となる。
実は、試合前に私は一本の電話を受けていた。
「今日の試合、北高校を勝たせてほしい」
声は、県サッカー協会の理事を務める中村のものだった。彼の息子が北高校のキャプテンを務めている。
「冗談でしょう?」
「いや、真剣だ。君の息子の就職のことも、私から話を通しておこう」
私は即座に電話を切った。しかし、その言葉は重くのしかかっていた。息子は来春の就職が決まっていない。中村の力を借りられれば……。
試合は終盤に差し掛かる。北高校が攻勢に出ていた。
その時だった。ペナルティエリア内で、北高校の選手が倒れた。観客からどよめきが起こる。
私は、その瞬間をスローモーションのように見ていた。北高校の10番、中村の息子が、意図的に相手の足に接触し、自ら転んだのだ。
スタジアムは静まり返った。全ての目が、私に注がれている。
ホイッスルに手をかけた私の脳裏に、様々な映像が駆け巡る。20年間の審判生活。公平な判定を心がけてきた日々。そして、息子の未来。
深く息を吸い込んだ私は、ホイッスルを吹いた。
「シミュレーション。北高校10番、警告」
スタジアムがざわめく。北高校のベンチが総立ちになる。中村の息子は、愕然とした表情で私を見つめていた。
その直後、試合は動いた。南高校の速攻。最後の最後で決勝点が決まる。
試合終了のホイッスルを吹いた時、私は清々しい気持ちだった。
更衣室に戻ると、携帯電話に中村からの着信が何件も入っていた。しかし、私はそれを無視した。代わりに、息子に電話をかけた。
「お父さん、試合どうだった?」
「正しい判定ができたよ」
「それなら良かった。実は、さっき内定をもらったんだ」
私は思わず声が詰まった。
「おめでとう。どこの会社だ?」
「この半年、コツコツ探してた会社。お父さんに頼らず、自分の力で決めたかったんだ」
電話を切った後、私は審判証を見つめた。そこには、20年分の試合記録が記されている。
翌日、予想通り中村から連絡があった。
「君の判定は間違っていた。協会としても、今後の割り当てを考え直さざるを得ない」
「分かっています。でも、私は正しい判定をしました」
その日を境に、確かに私への試合の割り当ては激減した。しかし、不思議と心は晴れやかだった。
それから1ヶ月後。地区の審判会議で、若い審判たちが私に近づいてきた。
「あの試合の判定、中村さんのことを考えると、勇気がいったと思います。でも、あれを見て、私たちも決意を新たにしました」
その言葉に、私は20年間の重みを感じた。審判という仕事は、単なるルールの執行者ではない。正義を守る者としての誇りがある。
今でも私は、地域のユース大会で審判を続けている。ホイッスルを吹くたび、あの決勝戦のことを思い出す。そして確信するのだ。正しい判定は、必ず誰かの心に響くということを。
グラウンドの片隅で、若い審判たちが真剣な表情で練習している。彼らの姿に、サッカーの未来を見る気がした。