『雨月の琴』(和風ファンタジー)
深山の古寺には、百年前から誰も弾いていない琴が置かれていた。しかし雨の夜になると、どこからともなくその音色が響くと言われている。本堂の軒下には古びた風鈴が下がり、縁側には三毛猫が座っていた。
「住職、お客様です」
小僧が告げると、庭の蓮池に月が映った。
「まあ、こんな雨の中を」
訪ねてきたのは、着物姿の若い女性。手には漆塗りの箱を抱えていた。
「琴を、直していただけますか」
声は優しく、どこか儚い。
「すみません、琴の修理は、もう……」
「お願いします」
女性が差し出した箱には、一本の絃が入っていた。月明かりに照らされ、不思議な輝きを放っている。
「これは……」
私は息を呑んだ。伝説に聞く「雨月の絃」。
「百年前、あの方が残したものです」
三毛猫が耳を立て、女性を見つめる。
「では、あなたは」
風鈴が、かすかに鳴った。
「私の先祖は、この寺の琴師でした」
女性の姿が、月光に透けて見える。
「弦が切れた夜、大雨で」
私は黙って頷いた。古い記録に残る悲劇。琴師は、絃を探しに山に入ったまま、帰らぬ人となった。
「今宵限り、どうか弾かせてください」
蓮池に雨粒が落ち、波紋が広がる。
「どうぞ」
私は本堂の琴に、新しい絃を張った。
「では百年越しの調べを」
女性の指が絃に触れた瞬間、雨足が強まる。
「懐かしい音色です」
三毛猫が目を閉じ、耳を澄ます。
旋律は雨に溶け、風鈴の音と重なっていく。女性の姿は次第に薄れ、最後の音が消えた時、漆塗りの箱だけが残されていた。
「住職、今の音は」
小僧が駆け寄ってくる。
「琴師の想いが、やっと届いたのだ」
蓮池に映る月が、静かに笑みを浮かべているように見えた。三毛猫は、もうそこにはいない。




