『音のない演奏会』(ヒューマンドラマ)
私は生まれつき音が聞こえない。でも、不思議なことに楽器を弾くことができる。触れた楽器の振動が、私の指先から体全体に広がり、目に見えない音楽となって心を満たすのだ。
「葵さん、今日も練習ですか?」
音楽教室の管理人である山田さんが、手話で話しかけてくる。私は頷きながら、古びたグランドピアノの前に座る。
このピアノには特別な力がある。弾くと、音が見える。青や赤、紫の光となって、空中に音符が浮かび上がるのだ。もちろん、これは私にしか見えない。
「今日は、どんな色が見えますか?」
山田さんが興味深そうに尋ねる。
「深い青です。少し寂しげな旋律かもしれません」
私の手が鍵盤に触れる。すると、まるで水彩画のように、音色が空間に広がっていく。
実は来月、特別な演奏会が開かれる。聴覚障害を持つ音楽家たちによる公演だ。私も出演することになっているが、不安で仕方がない。
「本当に、私にできるのでしょうか?」
山田さんは優しく微笑む。
「葵さんの音楽は、耳で聴くものじゃありません。心で感じるものです」
その時、教室のドアが開く。見知らぬ少女が立っていた。
「あの、ここで誰かが弾いていた音が……」
少女は途中で言葉を詰まらせる。私が手話で会話しているのを見たからだ。
「私は音が聞こえないの。でも、ピアノは弾けるのよ」
私はゆっくりと口を動かしながら告げる。少女は驚いた表情を見せる。
「それって、どうやって?」
「色が見えるの。音符が光になって」
少女の目が輝く。
「私も! 私も音が色に見えるんです。共感覚って言うんですって」
それが偶然の出会いだった。彼女の名は美咲。普通に音は聞こえるが、音を色として感じる特殊な感覚を持っていた。
「葵さんの演奏、すごくきれいな青色でした」
その言葉に、私の心が震える。誰かと音楽の色を共有できるなんて、初めての経験だった。
それからというもの、美咲は毎日のように教室に通ってくるようになった。私たちは互いの見える色について語り合い、時には一緒に演奏した。
「葵さん、デュエットしませんか?」
美咲の提案で、演奏会では連弾を行うことになった。私のピアノと、美咲のバイオリン。
練習を重ねるうちに、私たちの音楽は少しずつ変化していった。私の見る青い光は、美咲のバイオリンが奏でる金色の光と溶け合い、まるで夕暮れの空のような神秘的な色彩を生み出すようになった。
演奏会当日。会場には様々な障害を持つ音楽家たちが集まっていた。
「みんな、違う形で音楽を感じているんですね」
美咲が囁く。確かに、ここにいる誰もが、独自の方法で音楽と向き合っている。
私たちの番が来た。深呼吸をして、ステージに立つ。
最初の音を奏でた瞬間、会場が色で満ちていく。観客の中には、私たちと同じように色を見える人もいるかもしれない。でも、それ以上に大切なのは、この瞬間を共有できることだ。
演奏が終わると、大きな拍手が起こった。その振動が、温かい波となって私の体を包み込む。
「葵さん、私たち、新しい音楽を作れたと思います」
美咲の目には涙が光っていた。
それ以来、私たちの音楽は少しずつ広がっていった。聴覚障害者のための音楽教室を開き、色で音を感じる方法を教えるようになった。
「音楽は、必ずしも耳で聴くものじゃないんです」
今では、そう胸を張って言える。私の見る音楽の色は、確かに誰かの心に届いているのだから。
ピアノの前に座るたび、私は思い出す。音のない世界で育った私が、音楽という新しい世界に属することができた喜びを。そして、その扉を開いてくれた人々との出会いの素晴らしさを。
鍵盤に触れると、また新しい色が空間に広がっていく。それは私たちの音楽。誰にも真似のできない、特別な演奏会の始まりだ。