『最後の給食』(ヒューマンドラマ)
小学校の給食室には、いつもの茹で野菜の香りが漂っていた。私は包丁を研ぎながら、窓の外に目をやる。校庭では児童たちが追いかけっこをしている。調理場の古い壁掛け時計は、午前10時を指していた。
「栄養士さん、今日のデザートはなんですか?」
配膳員の笑顔に、私は静かに答えた。
「みかんです。今朝市場で、最後の仕入れをしてきました」
来週から給食は外部委託になる。私の机の上には、辞令書が置かれていた。
「あのね、保健室の先生から」
配膳員が一通の手紙を差し出す。開くと、一年生の女の子の絵が描かれていた。
「食物アレルギーの子ですね」
私は思わず微笑んだ。入学式の日、不安そうな表情でやってきた児童だ。
「毎日、特別メニューを作ってくださって」
配膳員の言葉に、私は首を振った。
「当たり前のことです」
包丁で人参を刻みながら、私は思い出していた。30年前、私もアレルギーに苦しむ児童だった。
「あら、もうこんな時間」
窓の外では、体育の授業が始まっていた。
「今日は特別メニューですよね?」
私は黙って頷いた。最後の給食は、30年間で最も思い入れのある献立だ。
「カレーライス、ですか?」
配膳員が、釜の中を覗き込む。
「ええ。でも、普通のカレーではありません」
私は調味料の棚から、特別な香辛料を取り出した。
「みんなが食べられる、特別なカレーです」
30年かけて完成させたレシピ。アレルギーの児童も、安心して食べられる味。
「でも、明日からは」
配膳員の声が震える。
「大丈夫です。レシピは、後任の方に託してあります」
壁掛け時計が11時を打つ。もうすぐ給食の時間だ。
「最後まで、私にできることを」
私は静かに包丁を置いた。窓の外では、桜の花びらが舞い始めていた。
「さあ、配膳の準備を」
私は白衣のポケットから、一枚の古い写真を取り出した。30年前、私に特別食を作ってくれた栄養士との思い出。明日から、その想いは新しい手に託される。