「防音室」(ホラー)
古びたピアノ教室の最奥にある防音室は、いつも静寂に包まれていた。白木のドアには「レッスン中」のプレートが掛けられ、壁には色褪せた楽譜が飾られている。廊下の置き時計は午後6時を指していた。
「中村先生、最後の生徒さんが来ました」
事務員の佐々木さんが、恭しく告げる。
「ありがとう。今日で閉校ですものね」
私は新しい生徒の名簿に目を落とした。「鈴木美咲・8歳」。……妙に見覚えのある名前だ。
「どうぞお入りください」
ドアが開き、小さな女の子が入ってきた。真っ赤なワンピースを着ている。
「こんばんは。鈴木美咲です」
その声は、どこか空虚な響きがあった。
「では、好きな曲を弾いてみましょうか」
女の子は無言で頷き、ピアノの前に座る。その背中が、どこか寂しげに見えた。
「ショパンのノクターンを弾きます」
彼女の指が鍵盤に触れた瞬間、私の背筋が凍る。あまりにも見事な演奏。だが、音が出ているはずなのに、私には何も聞こえない。
「どうして……」
私の声が震える。女の子はただ黙々と弾き続ける。置き時計の針が、静かに進んでいく。
「先生は覚えていませんか?」
突然、彼女が振り向いた。その顔には、目がなかった。
「私、去年もここに来ました」
記憶が一気に蘇る。去年の火災。防音室に取り残された生徒。そして……。
「先生にはピアノが聞こえませんでしたね。扉が開かなくて」
女の子の姿が徐々に透明になっていく。
「助けを呼ぶ声も、だれにも届かなかった」
私は崩れ落ちるように床に座り込んだ。
「でも、最後のレッスンだけは、させてください」
置き時計が7時を指した時、部屋の温度が急激に上がり始めた。
「佐々木さん!」
叫び声を上げて振り返ると、事務員の姿はなく、廊下には炎が渦巻いていた。
「もう逃げなくていいんですよ、先生」
女の子の指が、見えない音を奏で続ける。壁の楽譜が、静かに燃えていく。
「レッスンは、まだ終わっていませんから」
プレートが床に落ち、永遠の静寂が訪れた。




