『最後のコーヒー』(ヒューマンドラマ)
古びた喫茶店の扉を開けると、懐かしい珈琲の香りが私を包み込んだ。店内には他に客の姿はなく、カウンター越しに白髪の店主が無言でコーヒーを淹れている。窓際の古時計は午後3時を指していた。店主の後ろの棚には、埃を被った賞状が飾られている。
「いらっしゃい。ご注文は?」
私は常連だった頃と同じ席、窓際の4番テーブルに腰掛けた。テーブルの上には、使い古された灰皿が置かれている。禁煙店が増えた今では珍しい光景だ。
「ブレンドを」
店主は無言で頷き、丁寧にコーヒーを淹れ始めた。その仕草は15年前と変わらない。
「随分と久しぶりですね、田中さん」
私は驚いて顔を上げた。まさか覚えていてくれるとは。
「よく覚えてらっしゃいましたね」
「あなたと息子は、うちの最後の常連だったからね」
店主の声には、どこか切なさが混ざっていた。
私の目は、カウンターの隅に置かれた新聞の切り抜きに引き寄せられた。15年前の交通事故の記事だ。その日も確か、この店で息子と待ち合わせをしていた。
「今日で閉店なんです」
店主の言葉に、私は息を呑んだ。
「実は、あの日のことを謝りたくて来たんです」
私の声が震える。古時計が、重たい音を刻んでいく。
「あの日、息子さんが来られたんですよ」
店主の言葉に、私の心臓が止まりそうになった。
「でも、あなたが来ないものだから、待ちきれずに出て行かれた。その10分後に……」
私は押し殺すように嗚咽を漏らした。遅刻した私を待ちきれず、息子は事故に遭ったのだ。
「これを」
店主が差し出したのは、古ぼけた封筒だった。
「息子さんが、あなたを待つ間に書かれていたものです」
封筒の中には、父の日のプレゼントを買ったことと、就職が決まったことを報告する手紙が入っていた。最後に「いつもありがとう」と書かれていた。
窓際の古時計が4時を指した時、店主は最後のコーヒーを私の前に置いた。賞状の埃が、夕陽に輝いていた。
「さようなら」
私は灰皿に触れることなく立ち上がった。もう誰も、ここで待つことはない。