表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
31/237

「香木という鏡」(現代ドラマ)


 古くから伝わる香道具が並ぶ和室で、香司の藤岡は新しい香木を手に取った。


「不思議な香りですね」


 弟子の野口が、静かに呟いた。


「ええ。この香木には、まだ名前がついていません」


 藤岡は、白檀のような、しかし何か異質な要素を含んだ香りを感じ取っていた。


「香に名前をつけるということは、その本質を理解するということ」


 野口は、師の言葉の意味を考えた。


「でも、香りは主観的なものです。同じ香りでも、人によって感じ方が違う」


「その通り。だからこそ、香りは私たちの内面を映す鏡となる」


 藤岡は、香炉に火を入れ始めた。


「今日は、この名もなき香木と対話してみましょう」


 静寂が部屋を満たす。炭の音だけが、かすかに響いている。


「香りには、時間が封じ込められている」


 藤岡は、ゆっくりと説明を始めた。


「この香木が育った数百年の歳月、吸収した大地の養分、浴びた陽光、全てが香りとなって今、私たちの前に現れる」


 最初の香りが、部屋に漂い始めた。


「最初は、甘みを感じます」


 野口が目を閉じて言った。


「でも、その奥に……何か懐かしいような」


「ああ。記憶を呼び覚ます香り、とでも言うべきかな」


 藤岡も、深く香りを嗅いでいた。


「不思議です。この香りを嗅ぐと、まだ見ぬ風景が浮かんでくる」


 野口の言葉に、藤岡は静かに頷いた。


「香りは、時として未来の記憶すら運んでくる」


 香が変化していく。最初の甘みは徐々に深みを増し、新たな層が現れ始めた。


「香りの正体を理解することは、自分自身を理解することでもある」


 藤岡は、古い香道具を手に取った。


「この香道具は、私の師から受け継いだもの。使うたびに、師の背中を思い出す」


 野口は、その言葉の意味を考えた。


「物には記憶が宿る、ということでしょうか」


「そうですね。そして香りは、その記憶を解き放つ鍵となる」


 時が静かに流れていく。香りは、さらなる変化を見せ始めた。


「今度は、森の深さを感じます」


 野口が言った。


「ええ。まるで、木々が私たちに語りかけているよう」


 藤岡は、香炉の火を調整しながら続けた。


「香道において、私たちは単に香りを楽しむのではない。香りを通じて、存在の本質に触れようとするのです」


 その言葉に、野口は深い洞察を感じた。


「では、この香木の名前は?」


「まだ決められません」


 藤岡は微笑んだ。


「香りは今も変化を続けている。その全ての姿を理解するまでは、名前をつけることはできない」


 夕暮れが近づき、部屋の空気が微かに色を変える。


「不思議ですね」


 野口が呟いた。


「何が?」


「同じ香りなのに、時間とともに違う表情を見せる。まるで生きているようです」


「その通り。香りもまた、一つの生命なのかもしれません」


 最後の香りが、静かに立ち昇る。


「先生、分かりました」


 野口の目が輝いた。


「この香りが教えてくれたのは、変化することの美しさです」


 藤岡は、深く頷いた。


「そうですね。私たちも、香りと同じように、常に変化し続ける存在なのです」


 その日の稽古は、新たな発見とともに終わりを迎えた。


 まだ名前のない香木は、静かに箱に収められた。しかし、その香りは二人の記憶に、確かな痕跡を残していた。


「いつか、この香りにふさわしい名前が見つかるでしょう」


 藤岡の言葉に、野口は黙って頷いた。


 それは、香りという目に見えない存在との対話を通じて、自己を見つめ直す永遠の旅の始まりだった。


 部屋には、かすかに香りが残っていた。それは、まだ語られていない物語の予感のようでもあった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ