『時計職人の告白』(ヒューマンドラマ)
正確な時を刻む時計には、必ず嘘が含まれている。これは、老時計職人の藤堂が常々口にしていた言葉だった。
藤堂の時計店は、駅前の雑居ビルの3階にある。店内には、壁一面に様々な時計が並び、カチカチと音を刻んでいる。しかし、不思議なことに、それらの時計は微妙にずれている。1分、2分、時には10分以上の差がある。
「お客様、この時計は今から2分遅れています」
藤堂は新品の時計を手に取り、客に説明する。
「え? 新品なのに遅れているんですか?」
「ええ。でもこれは、とても大切な2分なんです」
藤堂の言葉に、客は首を傾げる。
実は藤堂には、ある秘密があった。彼は40年以上、時計に意図的な誤差を仕込んできたのだ。それも、顧客一人一人に合わせて、異なる誤差を。
ある日、警察が店を訪れた。
「藤堂さん、あなたの時計に関して、苦情が来ているんです」
刑事は淡々と語る。
「時計の誤差で、人々の生活に支障が出ているとか」
藤堂は静かに微笑んだ。
「私の時計は、決して間違っていません」
「しかし、証拠があります。あなたの店で買った時計、全てに誤差がある」
「その通りです。でも、それは故障ではありません」
藤堂は立ち上がり、壁の時計を指さした。
「この時計は、急ぎ足の若者用です。3分進めてあります。彼は、いつも締め切りに追われている」
次の時計を指す。
「こちらは、定年後の紳士用。5分遅らせてあります。彼には、ゆっくりとした時間が必要でした」
刑事は困惑の表情を浮かべる。
「つまり、故意に?」
「はい。私は時間という檻から、人々を解放しようとしているのです」
藤堂は、40年間の記録が綴られたノートを取り出した。
「現代社会は、正確すぎる時間に縛られています。分刻み、秒刻みのスケジュール。でも、人間にとって本当に大切なのは、その人だけの時間なのです」
ノートには、顧客一人一人の生活リズム、性格、悩みが克明に記されていた。そして、その人に最適な「時間のずれ」が計算されている。
「この誤差によって、多くの人が救われました。遅刻癖が直った人、余裕を持てるようになった人、人生を楽しめるようになった人……」
刑事はノートに目を通し、深いため息をついた。
「確かに、苦情を言ってきた人々も、実は以前より生活が改善されているようです」
「時計は、人を縛るものであってはいけない。時を味方につける道具であるべきなのです」
その日以降、藤堂の時計店は、さらに多くの客で賑わうようになった。人々は、自分だけの「正しい時間」を求めてやってくる。
藤堂は今日も、新しい時計に微妙な誤差を仕込んでいる。その手元には、古びた懐中時計がある。
「私の時計は、今から2分遅れています」
かつて、彼の師匠がそう言って手渡した時計だ。その時計が、彼の人生を変えた。
時は巡り、今度は藤堂が、人々の人生に小さな歪みを与えている。その歪みは、やがて大きな変化となって、社会に波紋を広げていく。
「完璧な正確さより、その人に合った時間の方が、ずっと正しい」
藤堂は、今日も時計の針を少しだけずらす。それは、誰かの人生に、新しい可能性を開く瞬間となるだろう。
店の外では、様々な時を刻む人々が行き交っている。彼らの時計は、それぞれ違う時を指している。でも、それは間違いではない。むしろ、人生という名の時計の、最も正しい在り方なのかもしれない。