『発酵する記憶』(お料理現代ドラマ)
古い町家を改装した小さな発酵食品専門店。店主の松井は、麹室の温度計を確認していた。
「今日も完璧な温度です」
研修生の河野が声をかけた。
「ああ。でも、温度計が示す数値は、発酵の一面しか表していない」
松井は、壁に掛けられた古びた温度計に目を向けた。
「この温度計は、祖父の代から使っているものだ。機械的な精度は劣るかもしれないが、微妙な空気の変化を感じ取ることができる」
河野は不思議そうな顔をした。
「発酵には、科学では説明できない要素があるんですか?」
「そうとも言える。発酵は時間との対話なんだ」
松井は、麹室の奥から一つの瓶を取り出した。
「これは10年前に仕込んだ味噌だ。毎年同じレシピで作っているのに、年によって全く異なる味わいになる」
河野は瓶を手に取り、香りを確かめた。
「確かに、不思議な深みがあります」
「発酵は、時間を味わいに変える魔法なんだよ」
松井は続けた。
「私たちは、微生物の営みを科学的に理解しようとする。温度、湿度、pH値……。でも、本当に大切なのは、その向こう側にあるものかもしれない」
その日の夕方、二人は新しい味噌の仕込みを始めた。
「まずは、大豆の選別から」
河野は真剣な表情で豆を見分けていく。
「なぜ、機械選別しないんですか?」
「手で触れることで、その年の豆の個性が分かるんだ」
松井は一粒の大豆を指先で転がした。
「去年は雨が多かった。だから豆は少し硬めで、水分の吸収具合も違う。発酵にかかる時間も、自ずと変わってくる」
河野は黙って頷いた。発酵は、自然との対話でもあった。
夜が更けていく。仕込みの作業は、静かな儀式のように進められた。
「発酵には、待つ時間が必要です」
河野が呟いた。
「そうだね。でも、ただ待つのではない。発酵と共に生きる時間が必要なんだ」
松井は、麹室の古い柱に刻まれた年輪を見つめた。
「この建物自体が、時を刻む生き物のようなものさ。木材も、少しずつ発酵している」
翌朝、二人は出来上がった麹を確認していた。
「香りが違います」
河野が驚いた様子で言う。
「ああ。昨日とは別の表情を見せているね」
松井は穏やかに微笑んだ。
「発酵は、私たちに時間の味わい方を教えてくれる。急いではいけない。でも、立ち止まってもいけない」
河野は、麹の香りを深く吸い込んだ。
「先生、私にも分かってきました。発酵は、時間を可視化する方法なんですね」
「その通りだ。私たちは発酵を通じて、目に見えない時の流れを感じることができる」
店の奥から、何百もの瓶が並ぶ貯蔵庫が見える。それぞれの瓶には、異なる時間が封じ込められていた。
「発酵は終わらない」
松井は静かに言った。
「私たちが味わっているのは、永遠に続く変化の一瞬なんだ」
その言葉に、河野は深く考え込んだ。
季節は移ろい、新しい仕込みの時期がやってくる。発酵は、確かな科学的プロセスでありながら、計測できない神秘を秘めている。
それは、人生そのものに似ているのかもしれない。
松井は、新しい温度計を手に取った。
「これからは、君の時間を刻んでいくんだ」
河野に温度計を渡しながら、松井は微笑んだ。
「発酵は、私たちに生きることの意味を教えてくれる。それは、科学と魂の境界線で起こる小さな奇跡なんだ」
麹室に、新しい香りが漂い始めていた。それは、まだ見ぬ時間の味わいを予感させる、確かな予兆だった。




