『鏡の中の正体』(不条理)
深夜の骨董品店。古い姿見の前で、鑑定士の前田は息を飲んだ。
「これは……」
鏡の中の自分の姿が、わずかにずれて動いているように見えた。
「気のせいか……」
しかし、確かに鏡の中の映像は、前田の動きと完全には一致していなかった。
「前田さん、その鏡には近づかない方がいいですよ」
店主の老婆が、奥から現れた。
「なぜですか?」
「その鏡を最後に所有していた方は、失踪されました」
前田は、鏡から目を離さずに尋ねた。
「いつの話ですか?」
「七年前です。でも、不思議なことに、その方からは今でも時々電話がかかってくる。ご自身が誰なのか分からなくなったと言って……」
老婆の言葉に、前田は興味を示した。
「その方と、直接話すことはできますか?」
「ええ、明日の夜なら。毎月十三日の深夜に、必ず電話をくださるんです」
翌日、前田は再び店を訪れた。時計は午後11時50分を指している。
「あの鏡には、どんな由来があるんですか?」
老婆は古い台帳を開いた。
「江戸時代末期の品です。作り手は不明。伝説では、人の本質を映し出すと言われています」
「本質?」
「はい。見る者の『真の姿』を……」
その時、電話が鳴った。
「はい、もしもし?」
老婆が受話器を取る。しばらくの沈黙の後、前田に手渡された。
「もしもし」
「私は……私は誰なんでしょうか?」
か細い声が響いた。
「どういうことですか?」
「鏡を見てから、私は私でなくなってしまった。いいえ、私は常に私ではなかったのかもしれない」
前田は眉をひそめた。
「具体的に、どんな変化が?」
「最初は些細なことでした。髪型や服装が、記憶と違う。でも次第に、思考や感情まで……私の中の『私』が、誰かに置き換えられていくような」
声は続けた。
「今、あなたはその鏡の前にいますか?」
「はい」
「なら、すぐに気づくはずです。その鏡は、私たちの『仮面』を剥がすんです」
通話は突然切れた。前田は受話器を置き、鏡に向き直った。
そこには確かに、自分とは少し違う表情の「私」が映っていた。
「これは錯覚ではありません」
老婆が言った。
「鏡は嘘をつきません。私たちの方こそ、日々嘘をついて生きているのです」
前田は、鏡に近づいた。映り込む姿は、どこか悲しげな表情を浮かべている。
「私たちは、自分が見たいと思う自分を演じている……」
老婆の言葉が、遠くで響く。
「その仮面を外したとき、本当の『私』は存在するのでしょうか?」
前田は、鏡に手を触れた。冷たい感触。そして――。
「ああ……」
鏡の中の「私」が、こちらに手を伸ばしてきた。
それから一週間後。骨董品店に、一本の電話が入った。
「私は……私は誰なのでしょうか?」
見覚えのある声。しかし、それは前田のものではなかった。
「私は、かつて前田という名前の人間でした。でも今は……」
老婆は黙って聞いていた。
「鏡が見せてくれたのは、私という存在の虚構性でした。私たちは皆、自分で作り上げた幻想の中で生きている」
声は続けた。
「でも、その幻想こそが『私』だったのかもしれない。それを失った今、私は存在していないも同然です」
老婆は、姿見に布をかけながら呟いた。
「全ての人間は、自分という檻の中で生きている。その檻から解放されたとき、私たちは本当の自由を得るのか、それとも……」
鏡の前には、誰もいない。しかし、その表面には無数の顔が揺らめいているようにも見えた。それは私たちの中に潜む、無限の可能性か、それとも永遠の虚無か。
答えは、鏡の向こうに沈んでいった。そして今も、誰かが電話をかけ続けている。自分探しの終わりなき旅の中で。
時計の針が、午前0時を指した。新たな一日の始まり。しかし、誰のための時間なのか、もう誰にも分からない。
鏡は、静かに闇の中で光を放っていた。次の「私」を待ちながら。




