「三丁目のひみつ餡」(ヒューマンドラマ)
夕暮れ商店街のちょうど真ん中あたり、古びた看板に「梅廼家」と墨痕鮮やかに書かれた和菓子屋がある。三代目の和樹が、頑固一徹だった祖父の跡を継いで半年。ショーケースに並ぶ練り切りや大福は、祖父譲りの丁寧な仕事ぶりを感じさせるものの、店にはどこか活気がなかった。和樹自身、接客は苦手で、必要最低限の言葉しか口にしない。その仏頂面も相まって、常連だった客足も少しずつ遠のいていた。
「……いらっしゃい」
引き戸がガラリと音を立て、ひょっこり顔を出したのは、近所に住む高橋トメさんだった。八十歳はとうに超えているはずだが、背筋はしゃんとし、目はいたずらっぽく輝いている。梅廼家の先代、つまり和樹の祖父とは幼馴染だったという。
「かずちゃん、今日も難しい顔しちゃって。もっと笑わんと、福が逃げるよ」
トメさんは、カウンター越しに菓子を選ぶでもなく、和樹の顔をじっと見つめる。
「……別に、怒ってるわけじゃないです」
和樹は視線を落とし、作りかけの桜餅に手早く餡を包んだ。この老婆は、何かと理由をつけては店にやってきて、和樹にあれこれ話しかける。正直、少し鬱陶しかった。
「おじいさんの餡子はねぇ、そりゃあ絶品だった。でもね、かずちゃんの餡子も、悪くない。ただ……何かが違うんだよ。何かがねぇ……」
トメさんは独り言のように呟き、ふう、と息をついた。
「それは、俺が未熟だからでしょう」
和樹はぶっきらぼうに答えた。祖父の味を再現しようと、レシピ帳とにらめっこする毎日だ。寸分違わず作っているつもりなのに、常連客からは「やっぱり先代とは違うね」と言われることもあった。
「未熟なんじゃないよ。そうさなぁ……。かずちゃんの餡子には、秘密がないんだよ」
「……秘密?」
和樹は思わず顔を上げた。トメさんはにっこり笑う。
「おじいさんの作る特別な餡子があってね。季節に一度、気が向いた時にだけ店に出るんだ。名前はなくてね、あたしたちは『ひみつ餡』って呼んでたんだけど」
「ひみつ餡……? レシピ帳には、そんなもの載ってませんでしたけど」
「だろうねぇ。おじいさんの、その時の気分次第だったから。でも、忘れられない味なんだよ。最後に食べたのは、もう十年以上前かねぇ……。もう一度、食べてみたいもんだねぇ」
トメさんは遠い目をして、ショーケースの隅を眺めた。その横顔には、単なる食い意地ではない、何か切ないものが滲んでいた。
その日から、和樹の頭には「ひみつ餡」のことがこびりついて離れなくなった。祖父が、レシピにも残さなかった特別な餡。一体、どんな味だったのだろうか。トメさんの曖昧な記憶――「普通の小豆餡とは違う、何かこう、ふわっと花の香りがするような、それでいて懐かしいような……」――だけが手がかりだった。
和樹は、店の奥にある物置同然の小部屋を漁ってみた。祖父が使っていた古い道具や、走り書きのメモが残された帳面。その中に、一枚だけ、黄ばんだ和紙に書かれた断片的な記述を見つけた。
『――白餡に、香り移す。夜露の記憶。甘さは控えめ、心で補うべし――』
それだけだった。白餡を使うこと、何かの香りを移すこと、そして抽象的な心構え。これでは何も分からない。
「……心で補う、か」
和樹は苦笑した。祖父らしい、職人気質の、不親切な言葉だ。
それでも、和樹は試作を始めた。ベースとなる白餡は、最高級の手亡豆を使い、丁寧に炊き上げる。問題は「香り」だ。桜の葉の塩漬け? 梅の蜜煮? 柚子の皮? 様々なものを試したが、トメさんの言う「ふわっと花の香りがするような、それでいて懐かしいような」という感覚には、どれもピンとこなかった。
試作を繰り返すうち、和菓子作りに没頭していた時には気づかなかった商店街の音や匂いが、意識に入ってくるようになった。豆腐屋のラッパの音、八百屋の威勢のいい声、隣の喫茶店から漂うコーヒーの香り。そして、時折店を覗いては「どうだい、ひみつ餡、できそうかい?」と声をかけてくるトメさんの顔。
ある日、八百屋のおかみさんが、店先に並べきれないからと、小さな金木犀の鉢植えを和樹にくれた。
「あんまり家に籠ってないで、たまには外の空気も吸いなよ。おじいさんも、よく縁側でぼーっとしてたじゃないか」
和樹は礼を言い、店の入り口にその鉢植えを置いた。夕方、店仕舞いをしていると、どこからか甘く、それでいて少し切ないような香りが漂ってきた。金木犀だ。その香りは、幼い頃、祖父の背中越しにかいだ記憶と不意に結びついた。祖父が庭の手入れをしながら、時折口ずさんでいた古い歌。縁側で餡を練りながら、遠くを見ていた祖父の横顔。
「……これか?」
和樹は、金木犀の花をいくつか摘み、白餡にそっと混ぜ込んでみた。しかし、香りが強すぎるし、花の食感も邪魔になる。
『香り移す』
祖父のメモが頭をよぎる。直接混ぜるのではない。香りを「移す」のだ。和樹は考えた。そして、昔ながらの「香煎」――茶葉などに花の香りを吸着させる手法――を思い出した。
彼は、丁寧に炊き上げた白餡を平たい容器に広げ、その上にガーゼを敷き、満開の金木犀の花を散らした。そして、一晩、そっと蓋をしておく。
翌朝、蓋を開けると、白餡には直接花が触れていないにもかかわらず、あの甘く懐かしい香りがふわりと移っていた。強すぎず、弱すぎず、まるで記憶の中の残り香のように。
「……できた、かもしれない」
和樹は、その餡を使って小さな餅菓子を作った。見た目は何の変哲もない、白い小さな大福だ。
ちょうどその時、トメさんが店にやってきた。
「おや、いい匂いだねぇ。金木犀かい?」
「……トメさん、ちょっと、味見してもらえませんか」
和樹は、少し緊張しながら、出来上がったばかりの菓子を差し出した。
トメさんは、小さな菓子を手に取り、ゆっくりと口に運んだ。目を閉じ、じっくりと味わっている。和樹は固唾を飲んで見守った。
やがて、トメさんの目尻に、皺と共に一筋の涙が伝った。
「……ああ……」
トメさんは、絞り出すような声を漏らした。
「……違いますか? やっぱり、俺には……」
和樹が落胆しかけた時、トメさんはゆっくりと首を横に振った。
「違うよ。……違うけど、これでいいんだ」
トメさんは、涙を拭いもせず、和樹の顔をまっすぐに見つめた。
「おじいさんの『ひみつ餡』はね、もっとこう、不器用な味がしたんだよ。戦後の、何もない時代にね、庭の隅っこに咲いた金木犀を見て、それでも甘いもんを作ろうって、意地みたいなもんが詰まってた。だから、懐かしいけど、どこか切ない味がしたんだ」
トメさんは、もう一つ、菓子を手に取った。
「でもね、かずちゃんのこれは……優しい味がするよ。おじいさんの心を受け継いで、あんたが新しい花を咲かせたんだ。……これは、かずちゃんの『ひみつ餡』だねぇ」
優しい味。和樹は、自分が試作を繰り返す中で、無意識に「誰かに喜んでほしい」と思っていたことに気づいた。祖父の味を再現することだけではなく、目の前のトメさんや、商店街の人々、そしてまだ見ぬ客の顔を思い浮かべていたことに。
「……ありがとうございます」
和樹は、照れくさそうに、しかしはっきりと頭を下げた。いつの間にか、店の入り口には、八百屋のおかみさんや、隣の喫茶店のマスターが、心配そうに様子をうかがっていた。
「なんだい、トメさん泣かせて!」
「いや、これは嬉し涙だよ」
トメさんは笑って手を振った。
その日を境に、和樹の「ひみつ餡」――金木犀の香りの白餡大福――は、梅廼家の新しい名物になった。数量限定だが、それを目当てに訪れる客も増え始めた。和樹の仏頂面は相変わらずだったが、時折見せる笑顔は、餡子と同じように、どこか優しく、温かいものになっていた。
夕暮れ時、金木犀の香りが漂う店先で、和樹は黙々と菓子を作る。その手元には、祖父から受け継いだ技術と、彼自身の新しい心がこもっている。三丁目の小さな和菓子屋には、今日もまた、誰かのための「ひみつ」が、そっと仕込まれているのだった。




