『十三番目の選択』(ミステリー)
雨の降りしきる深夜、古びた図書館の一室で、刑事の山岡は一枚の手紙を読んでいた。
「これで十三通目です」
相棒の中西が、散らばった証拠品を整理しながら言った。
「ああ。でも今回は違う。これまでの十二通とは、明らかに異なる」
山岡は眉間にしわを寄せながら、手紙を読み返した。
連続殺人事件の容疑者から送られてくる手紙。それは毎回、被害者を選ぶ理由を説明する哲学的な内容だった。しかし今回の手紙には、まだ殺害が行われていない次の被害者について書かれていた。
「被害者には必ず、何らかの倫理的な過ちがある。それが犯人の選定基準だ」
山岡は立ち上がり、ホワイトボードに向かった。
「最初の被害者は虐待を行っていた医師、二人目は詐欺を働いていた弁護士、三人目は……」
中西が遮るように言った。
「でも、その論理で行くと辻褄が合わない被害者もいます。八人目の主婦には何の問題もなかった」
「いや、それが重要なんだ」
山岡は、ボードに新たな線を引き始めた。
「犯人は、カントの義務論に基づいて行動している。普遍化可能な道徳的規則を追求しているんだ」
「どういうことですか?」
「八人目の被害者が、この事件の転換点だった。それまでの被害者は確かに非道徳的な行為を行っていた。しかし、その後の被害者たちには、より微妙な『罪』が存在している」
雨音が激しさを増す中、山岡は説明を続けた。
「九人目の大学教授は、研究不正を告発しなかった。十人目の会社員は、上司のセクハラを黙認していた。つまり、『見て見ぬふりをする』という消極的な悪への加担だ」
中西は資料に目を通しながら頷いた。
「なるほど。不作為の罪、ということですか」
「ああ。そして、この十三通目の手紙に書かれている次の標的は……」
その時、図書館の古い電話が鳴り響いた。
「山岡です」
「刑事さん、私です」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、これまで何度か接触のあった記者、風間の声だった。
「重要な情報があります。今から会えませんか?」
山岡は時計を確認した。午後11時を回っている。
「場所は?」
「中央公園の東門で」
電話を切った山岡は、中西に向き直った。
「行ってくる。君はここで資料の確認を続けていてくれ」
公園に向かう車の中で、山岡は考えを整理していた。これまでの被害者たちに共通する要素、犯人の行動パターン、そして次の標的……。
東門に着くと、風間の姿はなかった。代わりに、ベンチの上に一通の封筒が置かれていた。
「まさか……」
山岡は慎重に封筒を開けた。中から出てきたのは、これまでの手紙と同じ筆跡の文面だった。
『正義は、時として沈黙を選ぶことで歪められる』
その瞬間、山岡の背後で物音がした。
「動かないでください、刑事さん」
振り返ると、そこには拳銃を構えた風間が立っていた。
「やはり、あなただったか」
「気づいていましたか?」
「完全な確信があったわけではない。しかし、これまでの全ての証拠が、あなたに向かっていた」
風間は苦笑を浮かべた。
「記者として、私は多くの不正を見てきました。そして、それを報道できなかった。社会的影響や、広告主との関係を考慮して……。私は、正義を黙殺する共犯者だったんです」
「だから、自らの手で裁きを?」
「はい。でも、最後の標的は違います」
風間は拳銃を下ろした。
「最後の標的は、この私自身です」
山岡は息を呑んだ。
「あなたの論理では、自分も罰せられるべき存在だということか」
「その通りです。これが、私の選択の帰結です」
風間は拳銃を自分の頭に向けた。
「待て!」
山岡が叫ぶ前に、銃声が夜空に響いた。しかし、倒れたのは風間ではなく、彼の後ろから現れた中西だった。
「やはり、私にも選択の時が来ましたね」
風間は静かに言った。
「君は……分かっていたのか?」
「ええ。中西さんこそが、真の黒幕だと。彼は私の行動を利用して、自分の復讐を遂げようとしていた。私の手紙を模倣して……」
救急車のサイレンが近づいてくる中、雨は次第に小降りになっていった。
後の調査で、中西が以前の部署で揉み消した事件の被害者たちが、風間が選んだ標的と重なっていたことが判明した。風間の行動を予測し、利用することで、自らの復讐を正当化しようとしていたのだ。
それから一週間後、留置所で風間は最後の手紙を書いていた。
『選択には必ず代償が伴う。しかし、その代償を受け入れる覚悟こそが、真の正義への第一歩なのかもしれない』
山岡は、その手紙を読みながら考えた。正義とは何か、そして私たちは日々、どのような選択を迫られているのか――。
答えは、おそらく永遠に出ないのだろう。それでも私たちは、選択を続けていかなければならない。その選択の連鎖の中にこそ、人間の本質があるのかもしれない。