「万年筆と消失のインク」(ヒューマンドラマ)
神保町の古書店街から一本脇道に入ったところに、「硯友堂」という小さな万年筆専門の古物商がある。店主の時田老人は、矍鑠とした小柄な老人で、その指先はインクで染まっているというより、長年金属と樹脂を扱ってきた職人のそれだった。彼は万年筆の修理にかけては右に出る者がいないと言われ、また、曰く付きの古い筆記具に関する知識も豊富だった。
ある雨の日の午後、店のドアベルがちりん、と鳴った。入ってきたのは、仕立ての良いツイードのジャケットを着た、四十代半ばくらいの男だった。どことなく神経質そうな顔立ちをしている。
「いらっしゃいませ」
時田老人は、修理中のモンブランから顔を上げ、ルーペを額に押し上げた。
「こちらで、古い万年筆の鑑定や修理をなさっていると伺いまして」
男はそう言って、鞄から古風な桐箱を取り出した。蓋を開けると、紫色の布に包まれた一本の万年筆が収まっている。黒檀のような艶を持つ漆黒の軸に、控えめながら精緻な金蒔絵が施されていた。ペン先はかなり太く、独特の形状をしている。
「ほう……これは珍しい。戦前の、特注品でしょうな。作家か、あるいは好事家が作らせたものでしょう」
時田老人は手袋をはめ、慎重に万年筆を取り上げた。キャップを外し、ペン先を光にかざす。
「祖父の遺品整理で見つけたのです。ただ……奇妙な言い伝えがありまして」
男は声を潜めた。
「この万年筆で書いた文字は、特定の条件下で、跡形もなく消えてしまう、と」
「消えるインク、ですかな? 昔からありますな、そういう悪戯道具は。熱を加えるとか、薬品を使うとかで」
「いえ、そういう類ではないらしいのです。祖父の日記によれば、『月光の下でのみ、言葉は真の姿を隠す』と……。まるで呪いのようでしょう? 気味が悪いので、一度見てもらおうかと」
時田老人は、ふむ、と唸り、万年筆を様々な角度から眺めた。ペン先の形状、軸の構造、インクを吸入する機構……。特に変わった仕掛けは見当たらない。
「なるほど。月光、ですか。迷信めいていますが、面白い。試しに、何か書いてみましょうか」
老人はインク瓶からブルーブラックのインクを吸入し、試し書き用の紙に滑らかな曲線を描いた。美しい万年筆だ。書き味も極上と言っていい。
「このインクは、うちのオリジナルブレンドです。消えるような仕掛けは何もありませんよ」
老人はそう言って笑った。
「問題は、その『月光』とやらですな。今夜はあいにくの雨ですが……まあ、店にある紫外線ランプでも代用できるかもしれません」
男は、半信半疑といった表情で頷いた。
「それで……もし本当に消えるとしたら、どういう仕組みが考えられますか?」
「さあ。いくつか可能性はありますな。インク自体に特殊な成分が含まれているか、あるいは、この万年筆自体に何か秘密があるか……。例えば、ペン先に微量の触媒が仕込まれていて、特定の光に反応してインクを分解するとか。あるいは、もっと奇術的な……見立て、というやつですかな」
老人は、意味ありげに目を細めた。
「奇術的、ですか?」
「ええ。例えば、の話ですがね。本当に消えるのではなく、『消えたように見える』という可能性です。我々奇術師……おっと、昔の話ですが……は、よくそういう騙しを使います。注意を逸らす、思い込みを利用する、というやつですな」
男は興味深そうに聞き入っている。
「一晩、お預かりしてもよろしいですかな? 少し詳しく調べてみたい」
「ええ、お願いします。もし何か分かれば、ご連絡いただけますか」
男は連絡先を書いたメモを置き、丁寧に頭を下げて店を出て行った。
時田老人は、再び万年筆を手に取った。美しい工芸品だ。しかし、それだけではない何かを感じる。彼は長年の経験で培われた勘で、この万年筆には「語りたがっている秘密」があることを見抜いていた。
老人は店の奥にある作業場に籠もり、万年筆の分解を始めた。特殊な工具を使い、慎重にペン先ユニット、インク吸入機構を外していく。素人が下手にいじれば、二度と元に戻せないだろう。
数時間後、老人は一つの発見をした。ペン先の裏側、通常は見えない部分に、肉眼では判別できないほど微細な溝が刻まれているのだ。ルーペで拡大して、ようやくそれが何かの模様……いや、紋様であることに気づいた。それは、非常に複雑な幾何学模様だった。
「なるほど……これは……」
老人は、古い紋章学の資料を取り出し、照合を始めた。しかし、どの家紋とも一致しない。だが、その意匠には見覚えがあった。若い頃、奇術の道具を自作していた時に研究した、ある種の「騙し絵」のパターンに似ているのだ。特定の角度から、あるいは特定の光の下で見た時に、違う形が浮かび上がる……。
彼は紫外線ランプを取り出し、ペン先に光を当ててみた。しかし、何も変化はない。
「月光、か……」
老人は窓の外を見た。雨はまだ降り続いている。
ふと、彼は別の可能性に思い至った。問題はインクでも、ペン先でも、光でもないとしたら?
彼は試し書きの紙を手に取った。ブルーブラックのインクで書かれた曲線。彼はその紙を、作業台のライトにかざしたり、角度を変えたりして眺めた。変化はない。
「『真の姿を隠す』……か」
老人は呟き、あることを試してみることにした。彼は別の万年筆を取り出し、今度は透明な液体――ただの水――を吸入した。そして、先ほどの試し書きの、インクの線のすぐ隣に、水で見えない線を描いたのだ。
彼は息を止め、その紙を再び観察した。ライトにかざす。特に変わりはない。だが、彼は諦めなかった。紙を少し離し、焦点をずらすようにして眺める……。
その時だった。インクで書かれた曲線が、まるで陽炎のように揺らぎ、そして……消えた。いや、消えたのではない。隣に水で描いた(今は乾いて見えない)線と重なることで、目の錯覚が起き、インクの線が見えなくなったのだ。まるで、そこに何も書かれていなかったかのように。
「……! そういうことか!」
老人は膝を打った。ペン先の微細な溝は、特定の角度で紙にわずかな凹凸や、あるいは目に見えないほどの薄い油膜のようなものを付着させる仕掛けだったのかもしれない。それが、後から書かれたインクの線を、特定の条件下で「見えなく」させていたのだ。月光というのは、おそらく、弱い拡散光の下で、特定の角度から見た時に最も効果が現れる、という条件を示唆する比喩だったのだろう。
つまり、この万年筆は「消えるインク」を作り出すのではなく、「書かれた文字を、後から見えなくさせる」ための、極めて巧妙な「地」を作る道具だったのだ。先にこの万年筆で何か(例えば、秘密のメッセージを隠すためのダミーの線や模様)を描いておき、後から普通のインクで上書きする。そして、後日、特定の条件下で見れば、上書きされた文字だけが「消え」、下に隠された本来のメッセージが現れる……いや、違うな。これは逆だ。先にこの万年筆で秘密のメッセージを書いておく。乾けば、ほぼ見えない。後から別のペンで、無関係な文章を上書きする。そして月光(特定の条件)の下で見ると、上書きされた無関係な文章が「消え」、下に隠された秘密のメッセージだけが見えるようになる、という仕掛けだ!
老人は興奮を抑えきれなかった。なんという手の込んだ、そして美しいトリックだろう。まさに奇術師の発想だ。
翌日、再び雨が上がった午後、あのツイードの男が店を訪れた。
「何か分かりましたか?」
男は期待と不安が入り混じった顔をしている。
「ええ、分かりましたとも。実に面白い仕掛けでした」
時田老人は、万年筆を桐箱に戻しながら言った。
「この万年筆は、書いた文字を消すのではありません。書いた文字を『後から見えなくさせる地を作る』ための道具です。正確には、このペンで先に書いた、ほぼ見えない文字を、後から別のペンで書いた文字が特定の条件下で『消える』ことで、浮かび上がらせるためのものですな」
老人は、昨夜の発見を、種明かしをする奇術師のように説明した。男は驚きに目を見開いている。
「では、呪いでも何でもなく……?」
「ええ、素晴らしい技術と、奇術的な発想の結晶です。おそらく、あなたの祖父君は、相当な凝り性で、そしてユーモアのある方だったのでしょう。もしかしたら、秘密の通信か、あるいは……ラブレターでも隠していたのかもしれませんな」
老人は悪戯っぽく笑った。
男はしばらく呆然としていたが、やがて、ふっと息をつくと、安堵したような、それでいて少し残念そうな表情になった。
「そうですか……。ありがとうございます。長年の疑問が解けました」
男は礼を言い、万年筆を受け取って店を出て行こうとした。その時、時田老人はふと思い出したように声をかけた。
「ところで、お客さん。昨日、お帰りになった後、もうひとかた、この万年筆のことを尋ねてきた方がいらっしゃいましてな」
男の足が止まった。ゆっくりと振り返る。その顔から、先ほどの安堵の色が消えていた。
「……どんな方でしたか?」
「いや、それが妙な話で。あなたと瓜二つの……いや、ほとんど同じ顔立ちの方でしたよ。服装は違いましたがね。その方も、祖父の遺品だと言って、同じ万年筆の……いや、そっくりな偽物の万年筆を見せて、『この万年筆の秘密を解き明かしてほしい』と。どうも、あなたが本物を持っていると知っていて、先に手を打ちたかったようですな」
時田老人は、カウンターの下から、もう一本、例の万年筆と酷似した――しかし、よく見れば細部の作りが甘い――万年筆を取り出して見せた。
「おそらく、あなたの祖父君が遺した『本当の秘密』は、万年筆の仕掛けそのものではなく、その万年筆を使って書かれた『何か』なのでしょう。そして、それを狙っている人間がいる……。あなたが見せてくださったのは本物。実に精巧な作りでした。では、もう一方の……偽物を作ってまで探ろうとしている『何か』とは、一体なんでしょうな?」
老人は、値踏みするような目で男を見た。男の顔は蒼白になっている。
「……!」
男は何も言わず、足早に店を出て行った。雨上がりの湿った空気に、ドアベルの音がちりんと響き、すぐに静寂が戻った。
時田老人は、カウンターに残された「偽物」の万年筆を手に取った。もちろん、そんなものは存在しない。老人が昨日、男が帰った後に、手持ちの部品を組み合わせて、それらしく見せかけた即席の小道具だ。瓜二つの人物が来たというのも、もちろん嘘である。
あの男は、万年筆の「仕掛け」だけを知りたがっていた。祖父の遺品というのも、おそらく嘘だろう。彼は、万年筆そのものではなく、それを使って書かれたであろう「秘密の文書」の存在を知っていて、その「読み方」を探っていたに違いない。そして、その情報を独り占めしようとしていた。老人の鎌掛けは、男の、そしておそらくは彼の背後にいるであろう誰かの、真の目的を炙り出すための、ちょっとした「奇術」だったのだ。
「さて……本当の持ち主は、いつ現れるかのう」
時田老人は独りごち、本物の万年筆――男が慌てて持ち帰ったそれ――に思いを馳せた。あの万年筆が、これからどんな物語を紡ぎ出すのか。あるいは、どんな騒動を引き起こすのか。それを想像するだけで、老人の口元には、職人とも奇術師ともつかない、愉悦の笑みが浮かぶのだった。彼は額のルーペを直し、再び手元のモンブランの修理に取り掛かった。古びた万年筆だけが知る秘密のインクは、まだ誰にも読まれぬまま、どこかで静かにその「時」を待っているのだろう。




