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いろんなショートストーリー集  作者: 霧崎薫


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「時屋の柱時計」(ヒューマンドラマ)


 路地裏の突き当り、蔦の絡まる古い建物の軒下に「時屋」という小さな看板が掛かっている。埃っぽいショーウィンドウには、置時計や腕時計が雑然と並べられているが、どれもこれも止まったままか、おかしな時刻を指しているかのどちらかだった。佐伯がこの店に通うようになって、もう半年になる。目当ては、店の奥で鈍い光を放つ古びた柱時計だ。

 店主は痩せた老人で、いつもカウンターの奥でルーペを覗き込んでいる。佐伯が入ってきても、ちらりと視線を寄越すだけだ。

「こんにちは」

 佐伯は声をかけ、いつものように柱時計の前へ歩み寄った。磨かれてはいるものの、あちこちに傷があり、文字盤のガラスにはうっすらと曇りがある。それでも、振り子は規則正しいのか不規則なのか判然としない音を立てて揺れ、長針と短針は、確かに動いていた。

「……相変わらず、妙な動きをしますね、この時計は」

 佐伯の独り言のような呟きに、老人はルーペを額に上げたまま、かすかに頷いた。

「時間は、正直なようで嘘つきですからな。人の心と同じです」

 老人はそう言って、また手元の作業に戻る。この時計は、持ち主の心残りを映すのだと、いつか老人は言った。「失くした時間を取り戻せると信じて、遠方から見に来る人もいるくらいで」と、どこか他人事のように付け加えて。

 佐伯には心残りがあった。数年前、たった一度の、しかし決定的な口論で親友の健一と袂を分かってしまったことだ。くだらない意地の張り合いだった。謝る機会はいくらでもあったはずなのに、気づけば互いに連絡を取らなくなっていた。あの日の健一の怒った顔と、最後に交わした棘のある言葉が、繰り返し佐伯の胸を締め付ける。

 この柱時計を見ていると、不思議なことが起こる。時折、時計の針が、健一と最後に会った日付――七月十四日――や、口論になった時刻――午後三時過ぎ――を指し示すように見えるのだ。もちろん、気のせいかもしれない。傷やガラスの曇りが、そう見せているだけかもしれない。だが、佐伯はそこに淡い希望を見出さずにはいられなかった。もしかしたら、健一も後悔しているのではないか。この時計が、二人の時間を繋ぎ直してくれるのではないか……。

「過去ばかり見ていても、肩が凝りますぞ」

 老人が、いつの間にか佐伯の隣に立っていた。

「分かってはいるんですがね……」

 佐伯は力なく笑った。

「どうしても、考えてしまうんです。もし、あの時に戻れたら、と」

「ふむ」

 老人は顎鬚を撫でながら、柱時計を見上げた。

「時間は前にしか進まんと言うが、果たしてそうですかな。記憶の中で、時間は歪み、止まり、繰り返す。その繰り返しが、今を縛ることもある」

 老人の言葉は、いつもどこか捉えどころがない。佐伯は溜息をつき、その日も時計を後にした。

 季節が巡り、冷たい雨が降りしきる午後になった。佐伯は傘を畳みながら時屋のドアを開けた。いつものように柱時計に目をやる。その瞬間、古びた時計が、ごおん、ごおんと重々しい鐘の音を響かせ始めた。時刻は、午後三時を少し過ぎたところ。健一と喧嘩別れした、あの時刻だ。

 佐伯の心臓が跳ねた。何かが起こる。今度こそ、何かが……。彼は吸い寄せられるように柱時計に歩み寄った。鐘の音が止み、店内に静寂が戻る。振り子のカチコチという音だけが響く。佐伯は、祈るような気持ちで文字盤を見つめた。七月十四日を指しているように見える。

 その時、背後で店のドアが開く音がした。雨の匂いと共に、誰かが入ってきた気配がする。佐伯は振り返らなかった。時計に集中していた。過去への扉が開くなら、今しかない。

「……佐伯?」

 不意に、懐かしい声が鼓膜を震わせた。佐伯ははっとして振り返った。そこに立っていたのは、少し痩せたが、見間違えるはずもない、健一だった。ずぶ濡れのコートの肩をすくめ、困ったような、それでいて少し嬉しそうな顔をしている。

「健一……? どうして、ここに……」

「いや……この店の前、時々通るんだ。さっきもお前の傘が見えた気がしてな。ずっと、気になってたんだ。あの時のこと、悪かったと思ってる」

 健一は視線を落とし、気まずそうに言った。佐伯は言葉を失い、ただ健一の顔を見つめていた。

 カウンターの奥から、老人の静かな声が聞こえた。

「その時計はね、旦那。過去を映すんじゃありませんよ」

 老人はいつものように、穏やかな目をしていた。

「見たい、会いたいと強く願う心が、すぐそばにある『今』を引き寄せるのかもしれませんな。……まあ、ただの偶然かもしれませんけどね」

 柱時計は、相変わらず不確かなリズムで振り子を揺らし、ゆっくりと現在の時刻を刻み始めていた。七月十四日でも、午後三時過ぎでもない、今日の、今の時間を。佐伯が過去だと思い込んでいた幻影は、すぐそこまで来ていた友人の気配を、時計が捉えていただけだったのかもしれない。いや、佐伯自身の心が、無意識に健一の存在を感じ取っていたのかもしれない。

 佐伯はようやく口を開いた。

「……俺の方こそ、悪かった」

 健一は顔を上げ、少し驚いたように目を見開いた後、ふっと表情を和らげた。

「とりあえず、雨宿り、させてくれよ」

「ああ。……コーヒーでも、飲むか?」

 二人の間に、ぎこちないが、確かな空気が流れ始めた。時屋の古びた柱時計は、ただ静かに、二人の新しい時間を刻んでいた。それは過去への扉ではなく、すぐそばにあった現在への、そして未来への扉だったのかもしれない。

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