「鍵穴の向こう」(ヒューマンドラマ)
雨が窓を叩く音が、部屋にこもった古い本の匂いと混じり合っていた。春の京都。路地裏にある小さな古書店で、俺は一冊の古い日記を手に取っていた。表紙には「鍵穴の向こう」と書かれ、著者名はなかった。店主の老女が言った。「それ、誰かが置いていったの。読んでみる?」
俺は頷き、日記を開いた。最初のページには、女性の手によると思われる繊細な文字でこう書かれていた。「この日記は、私の心の鍵穴。覗いた者は、私の秘密を知るだろう」。興味をそそられ、俺は読み進めた。
日記は、名前のない女性が書いたものだった。彼女は、夫との冷え切った関係に悩み、夜な夜な鍵穴から夫の書斎を覗いていた。そこには、夫が何かを隠している様子が記されていた。ある夜、彼女は夫が書斎で古い鍵を握りしめ、壁に向かって囁く姿を見たという。
「お前はもういない。でも、俺は忘れない」
俺は背筋が寒くなった。日記の記述は、まるで俺自身の過去を覗いているようだった。3年前、妻が事故で亡くなった時、俺は彼女の形見の鍵を握りしめ、書斎で泣いていた。あの鍵は、妻が大切にしていた古い箱のものだったが、中身は空だった。俺はそれを壁の穴に隠し、二度と触れなかった。
日記を読み進めると、女性は夫の秘密を探るため、鍵穴から書斎を覗き続ける。やがて、彼女は夫が壁の穴から何かを取り出すのを見た。それは、古い手紙の束だった。手紙には、夫がかつて愛した女性への思いが綴られていた。女性はショックを受け、日記にこう書いた。
「私は彼の心の鍵穴から、別の女の影を見た」
俺は息を呑んだ。妻が亡くなる前、俺はかつての恋人からの手紙を見つけたことがある。だが、それは妻が俺に宛てた手紙で、彼女が俺の過去を許し、愛していると書かれていた。俺はそれを壁の穴に隠し、妻には言わなかった。日記の女性と俺の妻は、まるで同じ行動を取っていた。
混乱した俺は、日記の最後のページを開いた。そこには、女性が夫に問い詰める場面が書かれていた。「あなたは私を愛していないのね」と彼女が叫ぶと、夫は静かに答えた。
「愛しているさ。でも、君はもういない」。
女性は愕然とし、日記はそこで終わっていた。
俺は震える手で日記を閉じた。店主が近づき、言った。
「その日記、君に似合うと思ってたわ。鍵穴から何を見たの?」
俺は答えられなかった。日記を手に店を出ると、雨が止んでいた。家に帰り、書斎の壁の穴を開けた。そこには、妻が残した手紙と、彼女の日記があった。日記を開くと、妻の文字でこう書かれていた。
「この日記は、私の心の鍵穴。覗いた者は、私の秘密を知るだろう」
俺は涙を流した。妻は、俺が過去を手放せないことを知りながら、愛し続けてくれた。日記の最後のページには、妻の言葉が続いていた。
「あなたがこの日記を読む時、私はもういない。でも、覚えていて。私はいつも、あなたの心の鍵穴から見守っている」
その夜、俺は妻の日記を胸に抱き、書斎で眠った。夢の中で、妻が微笑みながら言った。「鍵穴の向こうにいるのは、私よ」。目が覚めると、窓から朝日が差し込み、部屋には古い本の匂いが漂っていた。俺は立ち上がり、妻の日記を大切に本棚にしまった。
古書店に戻り、店主に日記を返そうとすると、彼女は首を振った。
「それは君のもの。鍵穴から見えた真実は、君だけが知っている」。
俺は頷き、日記を手に店を出た。路地裏を歩きながら、俺は思った。妻は今も、俺の心の鍵穴から見守ってくれている。




