「紙の上の指紋」(サスペンス)
雨が窓を叩く音が、部屋にこもったインクの匂いと混じり合っていた。2025年4月の東京、雑居ビルの4階にある小さな印刷所で、俺は原稿を読み直していた。締め切りは明日だ。編集者からは「もっと意外性を」と注文がついていたが、頭の中は白い霧で覆われたようだった。机の上には、俺が書いた短編小説の最終稿——「影を盗む男」——が散らばっている。強盗が被害者の影を奪うという奇妙な話だ。
「こんな話、読者は笑うだけだろ」俺は呟き、原稿をゴミ箱に放り込んだ。だが、その瞬間、紙が宙で止まった。いや、止まったように見えた。雨音が一瞬遠ざかり、原稿がふわりと机に戻ってきた。
目をこすると、目の前に見知らぬ男が立っていた。灰色のコートを着た瘦せた男で、手には俺の原稿を持っている。男は無表情で言った。「面白い話だ。続きが読みたい」
「誰だ、お前?」俺は立ち上がり、声を荒げた。だが、男は答えず、原稿を指でなぞった。その指先が紙に触れると、インクが滲み、文字が歪んだ。「影を盗む男、か。いいアイデアだ。だが、俺ならもっとうまく使う」
男が消えた瞬間、部屋の空気が重くなった。机の上の原稿が勝手に動き出し、ページがめくられていく。慌てて手を伸ばしたが、指先は紙をすり抜けた。まるで幻を掴むように。そして、原稿の最後のページに、新たな文章が浮かんでいた。俺が書いた覚えのない一行だ。「影を盗まれた男は、自分が消えるまで気づかなかった」
背筋が冷えた。雨音が再び耳に戻り、部屋は静寂に包まれた。男はどこにもいない。だが、俺の影——足元に伸びるはずの黒い輪郭——が消えていた。
翌朝、編集者に原稿を渡すため印刷所を出た。街はいつも通り、傘を差す人々が行き交っている。だが、何かがおかしい。道行く人が俺を避けるように視線を逸らし、コンビニの鏡に俺の姿が映らない。慌てて原稿を確認すると、そこにはさらに続きが書かれていた。「影のない男は、誰にも見られず、ただ彷徨う」
「冗談じゃない!」俺は叫び、原稿を破り捨てた。紙片が地面に落ちる前に、風に巻き上げられ、灰色のコートの男が現れた。「破っても無駄だ。お前が書いた物語は、もう俺のものだ」
男の言葉が頭に響き、俺は気づいた。原稿に書かれた「影を盗む男」の描写——瘦せた体型、灰色のコート、無表情な顔。それは目の前の男そのものだった。俺が創ったはずの登場人物が、現実に現れていた。
「どういうことだ? お前は俺の創作だろ!」俺が叫ぶと、男は薄く笑った。「お前が俺を書いたんじゃない。俺がお前を書かせたんだ。この物語の作者は俺だよ」
頭が混乱した。確かに、「影を盗む男」のアイデアは突然浮かんだものだ。夢の中で見たような曖昧な記憶しかなかった。それが現実の男だというのか? 俺は自分の原稿を手に取り、震える声で読んだ。すると、最後のページに新たな文が浮かんだ。「物語を書く者は、物語に書かれる」
男が手を伸ばすと、俺の指先からインクが滲み出し、紙に吸い込まれた。体が軽くなり、視界が歪む。気づけば、俺は原稿の中——白い紙の上で文字として並んでいた。男の声が遠くから聞こえた。「締め切りには間に合うよ。いい話になった」
印刷所の机の上では、完成した原稿が静かに置かれていた。タイトルは「紙の上の指紋」。編集者はそれを手に取り、呟いた。「こいつ、今回は本当に意外性のある話書いてきたな」
雨が止み、部屋にはインクの匂いだけが残った。原稿の隅には、俺の指紋が黒く滲んでいた。だが、誰もそれに気づかない。物語は完成し、俺はもうそこにはいなかった。




