「墨染めの鳥」(ヒューマンドラマ)
夜が更けるたび、京の町屋に灯る灯籠の数が減っていく。享保十八年(1733年)の秋、洛中では奇妙な噂が広がっていた。紋章上絵師の老匠・藤四郎が描いた鳥の家紋が、着物の裾から抜け出し、夜空を舞うというのだ。噂を笑う者もいたが、藤四郎の弟子である辰次は、それが真実だと知っていた。
辰次は師匠の工房で、墨と筆が織りなす微かな擦過音を聞きながら育った。藤四郎は寡黙な男で、弟子に技を教える際も「見て覚えろ」としか言わなかった。だが、ある夜、辰次は師匠の秘密を垣間見た。工房の奥、煤けた屏風の裏で、藤四郎が一羽の鳥を描き終えた瞬間、その墨染めの鳥が羽ばたき、窓から消えたのだ。
「辰次、見たな?」藤四郎は低い声で問うた。辰次が頷くと、彼は初めて笑みを浮かべた。「ならば、お前も描いてみろ。鳥を。魂を込めれば、飛び立つぞ」
辰次は半信半疑で筆を取った。墨の匂いが鼻をつき、筆先が和紙に触れるたび、微かな震えが指を伝う。彼が描いたのは、師匠の鳥とは異なる、細い尾羽を持つ雀だった。描き終えた瞬間、確かに雀は羽ばたき、工房の天井を旋回して消えた。驚きと喜びに震える辰次に、藤四郎は告げた。「これが我が家の秘術だ。だが、気をつけろ。鳥は描き手の心を映す」
その日から、辰次の日課は変わった。昼は客の注文に応じ、夜は鳥を描いて飛ばした。雀、鴉、鶴……。それぞれが夜空に消えていく様は、まるで夢のようだった。だが、ある晩、異変が起きた。辰次が描いた鴨が飛び立った直後、工房の外で悲鳴が響いた。近所の娘が鴨に襲われ、首に墨の跡を残して倒れていたのだ。
「師匠、これは……?」辰次が尋ねると、藤四郎は目を細めた。「言ったはずだ。鳥はお前の心を映す。お前、最近何を思っていた?」
辰次は言葉に詰まった。確かに、彼は近頃、娘に淡い恋心を抱いていた。だが、それが鴨となって彼女を傷つけるとは。恐怖に震える辰次に、藤四郎はさらに続けた。「秘術には代償がある。鳥が飛びすぎれば、お前の命が削れる。もうやめとけ」
だが、辰次はやめられなかった。秘術の魅力、鳥が空を舞う美しさが、彼を捕らえて離さなかった。夜ごと鳥を描き、飛ばし続けた。やがて、彼の指は痩せ細り、墨を握る力さえ衰えた。それでも筆を置かず、ある嵐の夜、最後の鳥を描いた。それは、真っ黒な鷹だった。
鷹は飛び立ち、雷鳴の中を舞った。そして翌朝、工房を訪れた町人が見たものは、藤四郎が呆然と立つ姿と、辰次が消えた跡だった。工房の壁には、墨で描かれた鷹の跡が残り、その下に小さな紙片があった。そこには、辰次の筆跡でこう書かれていた。「師匠、俺は飛びすぎた」
藤四郎はその紙を手に取ると、初めて涙を流した。彼は屏風の裏に隠していた古い巻物を取り出し、火にくべた。秘術の記録が燃え尽きるのを見届けると、彼は呟いた。「お前が鷹なら、俺はそれを描いた罪人だ」
その後、洛中の噂は途絶えた。だが、嵐の夜になると、町屋の上空を黒い鷹が舞う影を見た者があるという。藤四郎は二度と鳥を描かず、ただ黙って紋章を彫り続けた。工房に響くのは、墨の匂いと、時折漏れる老匠の咳だけだった。
享保十九年の春、藤四郎が死に、工房が取り壊された時、壁の裏から一枚の和紙が見つかった。そこには、辰次の描いた最後の鷹と並んで、もう一羽の鳥が描かれていた。藤四郎の手による、儚げな白い雀だった。町人はそれを見て呟いた。「こりゃ、師匠が弟子を追いかけたんだな」
だが、真実を知る者はもういない。墨染めの鳥たちは、京の空に溶け、永遠に飛び続ける。




