「《影喰の館》」(ホラー)
それは、雨の降る夜に始まった。
旧都心の外れにひっそりと佇む屋敷がある。高い塀に囲まれ、窓という窓には目隠しのように分厚いカーテンがかかっている。外観からして何かを拒むようなその家に、私は"訪れるべきではなかった"のだ。
依頼人は、ある精神科医だった。患者が語る「見えない同居人」の存在が実在するかどうか、それを確認してほしい──それが今回の私の仕事だった。
屋敷の主は、かつて異端の心理学者として知られた男だったという。精神の歪みに巣くう"影"を可視化する機械を作ろうとしていたらしい。彼の研究記録には、こう書かれていた。
「人は自らが認識しうる範囲でのみ世界を見ている。影は常に視界の外側で増殖する。見えないから、存在しないと思い込んでいるだけだ」
館の中に入った途端、異様な感覚に包まれた。空気は湿り、音は吸い取られ、私の存在すら曖昧になる。階段の上、廊下の端、鏡の向こう──視界の隅に、何かが「いる」。
そしてそれは、確かに"喰っていた"。静かに、だが確実に、私の記憶を、感覚を、思考を――私という輪郭を侵食していく。
最初の異変に気づいたのは、書斎の鏡だった。
そこに映っていたのは、私ではなかった。
同じ服、同じ顔、だが表情が違う。鏡の"中の私"は、私をじっと見つめていた。目に笑みを浮かべ、唇の端をゆっくりと吊り上げる。私は反射的に鏡を割った。
だが、その破片のひとつひとつに、それぞれ異なる私が映っていた。
泣く私、叫ぶ私、何かに怯える私、何かを悦ぶ私――私という存在が分裂し、同時に存在し、各々の欲望を抱えて蠢いていた。
館の奥、地下へと続く鉄扉を開けたとき、私は既に"私ではなかった"のだろう。
そこには椅子があった。深紅のビロードに包まれた、歪んだ造形の人間椅子。椅子の上には誰も座っていないのに、温もりだけが残っている。
そして私は、ふと気づいた。
この屋敷そのものが、誰かの精神の迷宮なのだと。記録にあった「影」とは、他人の内面に取り憑く"感情"であり、それに触れた者は、やがて自我を飲み込まれていく。
屋敷の壁に沿って並ぶ無数の絵画。
それは過去の訪問者たちの"顔"だった。
彼らは、自らの影を認められなかった。
その結果、内と外が反転し、彼らはこの館の一部になったのだ。
――私は、もう帰れないのか?
そう問いかける声が、私の中で幾重にも重なる。
だがその声は、私のものではなかった。
気づけば私は、書斎の椅子に座っている。
誰かが扉を叩いている。
私は立ち上がり、口元に微笑を浮かべ、来訪者を迎えに行く。
ゆっくりと。
静かに。
影が、またひとつ、増えていく――。




