「ことばのない町」(すこしふしぎ)
その町には、ことばがなかった。
声も、会話も、看板も、手紙もなかった。人びとはまるで、何も伝えようとせずに生きていた。それでいて、不思議と生活は成り立っていた。
町にたどり着いたのは、ある春の夕暮れだった。野川沿いを歩き続けていた私は、ふと道に迷い、見知らぬ橋を渡った。その先に、言葉の消えた世界が待っていた。
私は国語教師だった。教科書に載った詩を読み、作文の指導をし、生徒の心をことばで開かせようとした。けれど、ある日を境に、生徒たちが急に口を閉ざすようになった。
家庭に問題を抱える子、他人を信用しない子、暴言を繰り返す子。それに向き合うたび、私は少しずつ自分のことばに自信を失っていった。
「ことばなんて、もう届かないのかもしれない」
そんな思いが、私をこの町へ導いたのかもしれない。
町の人びとは皆、黙っていた。それでも互いの存在を否定することなく、静かにすれ違い、穏やかに暮らしているように見えた。
言葉がなければ、争いもないのだろうか。説明しなければ、誤解もないのだろうか。私は何度も自分に問いかけた。
そんな町で、私はひとりの少年に出会った。
彼は八歳くらいだろうか。古びた文庫本を両腕で抱え、大きな丸メガネをかけていた。彼だけは、町の他の住人と違って、話そうとしていた。口を開け、何かを言おうとするのだが――声が、出なかった。
彼は、しゃべれないのではなかった。しゃべりたいのに、声が出ないのだった。
私は、地面に木の枝で文字を書いた。
《なまえは?》
少年は首を傾げた。読み方がわからないのかと思ったが、そうではなかった。彼はそっと、地面にこう書いた。
《なまえは とくにない》
私は眉をひそめた。
《どうして?》
《ことばがないから、なまえもいらないって》
彼の文字は丁寧で、小さな気遣いがにじんでいた。
私たちは、言葉を持たない町の中で、文字を使って交流を始めた。
木の枝と地面、紙と鉛筆、時には身振り手振り。彼は、詩を書くことが好きだった。言葉を持たない町で、なぜ詩を書くのか? そう問うと、彼はしばらく考え、こう書いた。
《ことばをなくした町だから、ことばを夢にみるんだ》
その答えに、私は心を撃たれた。
ある日、彼が手渡してくれた小さなノートに、こんな詩があった。
> ゆめのなかでは ぼくはうたう
> うまれたときから しらなかったうたを
> だれかのためじゃない じぶんのための
> くちびるが ことばを おぼえていく
> そして しずけさに おどろくんだ
> 「ああ こんなに ないていたんだ」って
私はその詩を読みながら、自分が教壇で語ってきた“ことば”のすべてを思い返していた。励ますためのことば、叱るためのことば、問いかけるためのことば。どれも、届いたようで届かず、消えていったように思えた。
けれど、この少年の詩は――誰にも届かないかもしれないけれど、それでも、紛れもなく「生きている言葉」だった。
数日後、私は町を去る決意をした。
その前に少年に別れを伝えようと、筆談でこう記した。
《あなたの詩を、わたしの教室で読みます》
少年はにっこりと笑い、はじめて声を出した。
「……ほんと?」
その声は、ひどくかすれていたけれど、確かに“音”になっていた。
私はただ、うなずいた。
町を離れてからの日々、私は教室で彼の詩を朗読した。生徒たちは静かに耳を傾けた。誰もが、言葉にならない何かを感じ取ったようだった。
ある生徒がぽつりとつぶやいた。
「先生……この詩、ほんとうの声が聞こえる気がします」
私は、ゆっくりと目を閉じた。
あの町に、今もことばが戻っていないのかもしれない。でも、あの少年の声は――もう、どこかで生きている。
私はもう一度、言葉を信じてみようと思った。




